NHKにおける「旧派閥」の用語について

『クロ−ズアップ現代』の国谷さんは美しい。

その美貌と容姿、回転の速い頭脳、抜群の英語能力、誰からも好かれる誠実で謙虚な態度。神は万物を彼女に与えて、日本国中の男たちの憧憬と日本国中の女たちの羨望を、夜毎九時半のテレビのブラウン管に集中させている。クリントンとのインタビュ−も実に秀逸なものであった。それは彼女の素晴らしさばかりが際立った映像であった。NHKと外務省のビュ−ロクラシズムのプレッシャ−をはね返して、あそこまでジャ−ナリズムの結果を出し得たのは、一重に彼女の美貌と才能の賜物である。

およそNHKの会長程度の中途半端な小役人で終る器量の人ではない。今すぐにでも日本国の外務大臣を拝命して、おそらく他の誰よりも見事な成果と実績を上げられる能力の持ち主である。必ず政界から誘いの声が来るだろう。そのとき国谷さんはどう動くのだろうか。近い将来、もしもNHKに縁の人が総理大臣になるのであれば、橋本大二郎ではなく国谷裕子であって欲しい。それが、われわれ市民の願いである。

この美しく優秀な人を日本のリ−ダ−として戴いて、世界に向かって誇らしく胸を張りたいものである。彼女が日本国首相として世界の表舞台に堂々出れば、世界の政治は大きく変わり、また世界が日本を見る眼は一転することだろう。サミットの報道カメラマンはパパラッチよろしく彼女の一挙手一投足に釘付けとなるに違いない。他の顔ぶれは刺し身のツマも同然である。世界の人々は、かつてゴルバチョフに与えたのと同じほどの拍手と歓呼で、美しく明るい彼女を出迎えてくれることだろう。その眩い挙措に目を細め、きらめく才能に息を呑むことだろう。そして日本人は大きく自信を取り戻すことだろう。

世界中から嫌われ者となり、邪魔者扱いされ、経済も文化も凋落退廃する一方の現在の日本と日本人には、彼女のような美しく優秀でアウトスタンディングな指導者が、今こそ必要なときである。できるならば、その美貌と容姿が衰えを見せぬその前に、世界の桧舞台に彼女を押し上げたいものである。花の命は儚く短い。美しく咲き誇るその瞬間を日本の国益と世界の平和のために捧げる機会を何とか持って欲しいと私は思う。

その国谷さんが、何故か九月一○日の番組をお休みした。風采の上がらない代役のアナウンサ−は国谷さんのお休みの理由については触れなかった。そしてその日の特集は「自民党権力抗争劇」であった。例によって大本営広報官たるNHK政治記者なる者が威張って出てきて、視聴者に向かって原稿棒読みの「永田町政界夏物語顛末」を丁寧に解説してくれていた。

小渕会長を中心とする旧小渕派では執行部支持の方針を固めました。

そのとき画面を見ながら気になったのが、NHKの言う「旧派閥」という表現である。小渕恵三が黒塗りのクルマから降りて出てくる映像のテロップには「旧小渕派 小渕会長」と書かれていた。高級ホテルの宴会場で水割りのグラスを持って挨拶する三塚博の映像のテロップには「旧三塚派 三塚会長」と記されていた。「旧小渕派の会合では小渕会長によって現執行部支持の方針が固まりました」。政治記者はそう解説していた。私が感じたのは、この表現は英語で言えば一体どういう表現になるのだろうかということだった。

「派閥」は"habatsu"とするか"group"とするかであろう。「旧派閥」は"former group"あるいは"one-time political group"であるだろう。"former group"に"present leader"が存在して、その leader が meeting を call して、group の political な decision making を与える、などということがあるのだろうか。そういう英語の文章が成り立つのだろうか。ニュ−スを英語に翻訳する人間はその事実をどう表記しようとするのだろうか。

その夜「旧小渕派」や「旧三塚派」が開いた会合が、第一線を引退した老人たちが昔の派閥活動を懐古するために集う同窓会であれば「旧小渕派の会合」の表現も理解できる。けれどもそれならば、そのときの日本語は「小渕会長」とは言わず「小渕元会長」と言うべきであろう。フィリピンの密林で発見されたのは「旧日本軍の小野田元少尉」であった。戦争が終わった後に現役少尉はいないのである。日本放送協会はこの国のどの組織や機関よりも正確な日本語の使用に対して厳密、敏感でなければならないはずである。日本放送協会が間違った日本語を平気で使うようになってしまったら日本国と日本文化は一瞬にして滅びる。司馬遼太郎ならそう言うだろう。

「旧」という表現が組織や集団に対して使われる例を辞書を引いて検証しよう。それは例えば、旧土佐藩、旧日本軍、旧ソ連共産党などという場合に使われる。すなわち以前は存在したけれども現在は存在してないもの、ある時点ですでに解散した集団や組織、すでに消滅した体制や機関に対して「旧」がつけられる。現在も生きて活動している組織や集団には「旧」はつけられない。旧日本国、旧大蔵省、旧自民党などという言い方は有り得ないのである。「旧小渕派の小渕会長」という表現は、明らかに日本語として論理矛盾である。それは蓮實重彦を「旧東京帝国大学の蓮實総長」と呼んでいるのに等しい。

ここには、日本語と日本の思想に特有な問題である「言葉と中身のずれ」「形式と実体のずれ」が存在する。gap を内包したまま、conflict を調整しないままの無自覚的な併存状態が存在する。そして政治的なるものは常にそこを衝いてくる。ズレをズレとして意識させず、庶民生活の日常の中で常識としてコンクリ−トさせ、自然に流通させようと働きかけてくるのである。そのズレが「サイパン島からの皇軍の転進」などという極端なところまで破綻が及べば人々にも事の真実が理解できる。しかしそのときはもはや手後れなのである。「帝国軍隊による満州匪賊討滅」の時点で、それが「天皇制軍隊による大陸侵略」の真実として正しく了解されていなければ、歴史の進行を修正することはできない。

「旧小渕派の小渕会長」は明らかにそのズレを抱えた言葉であり、自民党が大衆を政治的にコントロ−ルするために、虚偽の事実を真実のものとして意識化させるべく上から提供された概念であり、それは支配の道具として機能するものであり、すなわち「虚偽意識」である。大衆が「旧小渕派の小渕会長」を常識として受け入れてくれれば、自民党にとってこれほどありがたいことはない。それをマスコミが「旧派閥」と呼ぶことは、派閥はすでに解消されたものであり、派閥などという「政治改革」以前の旧態依然たる政治属性なるものはもはや自民党には存在せず、自民党は「政治改革」で生まれ変わったオ−プンな党なのだという主張をマスコミが承認することである。結局、マスコミは自民党の言うがままに操られるロボットだということを証明する行為である。

それは「派閥解消」の形式と「派閥政治」の大いなる実体の矛盾的同時併存を、gap とも conflict とも言わずにそのまま既成事実として認めさせ、要するに「派閥政治」の論理と構造を日本の政治の基本路線として今後とも続けて行こうとする自民党支配層の「現代政治の思想と行動」の誇らしげな勝利宣言である。古層「つぎつぎになりゆくいきほひ」の政治現場における大いなる勝利の瞬間である。

日本語のオ−ウェル的改造、既成事実への無自覚的屈服

数ある報道機関の中で、その「既成事実」への屈服の度合、したがって言葉と現実のギャップを最も甚だしく露呈させていたのが、われらが国民放送協会、NHK政治部であった。朝日新聞は、領袖が死去している「渡辺派」と「河本派」のみについて「旧渡辺派」「旧河本派」の呼称を使っている。すなわち、小渕派、三塚派、宮沢派は、派閥としてそのまま現在も生きているという認識である。NHKに比べれば相対的に正常であると言えるのだろうが、苦しまぎれに「旧渡辺派」「旧河本派」と妥協して書いてしまうのもどうかと思う。朝日新聞の見識が問われるところである。私が接した限りで、その政治的真実に最も正確に接近していたのはTBS『ニュ−ス23』であり、そこではそれを「中曽根派」と明確に呼んでいた。それでよい。「旧渡辺派」ではさすがに「丸山門下」を自称する筑紫哲也のプライドが許さないのであろう。至極当然のことである。

自民党の内部にはポストとカネをせめぎ合う複数の党内グル−プが存在する。それをNHKは「旧派閥」と呼ぶ。朝日新聞は「派閥」と呼ぶ。けれども、一度解散を宣言して消えたたはずの former group が present leader を戴き、政治の表舞台で堂々と権力抗争している現実に対して「旧渡辺派」という曖昧な表現で黙認していることには変わりはない。それは英語では表現できない説明不可能な政治記事であり、その言葉で一面を飾ることは、やはり権力政治が市民社会に対してゴリ押しする「既成事実」への屈服であるに違いない。

「医療改革関連法案は、衆議院の厚生委員会に上程され、速やかに審議可決されました」という表現も同じであろう。真実はその法案は「ほとんど審議されないまま可決成立されました」である。官僚が作文した法案が悉く無修正なまま僅か数十分でポンポン可決成立されて行く。政治家がそれを成立させるかどうかは議事堂の中でなく赤坂の料亭で相談する。法案の中身についての相談ではない。与党三党間の些末な政治的駆け引きの相談である。「速やかに審議可決されました」と「ほとんど審議されす可決成立されました」では、同じ事実でありながら、その事実の書き方(すなわち歴史認識)が全く違う。そこには、「速やかに審議可決されました」と書き残したい人たちがいる。そして「ほとんど審議されないまま可決成立されました」の方が真実ではないかと抗議する人々がいる。私たちはそれを「ほとんど審議されないまま可決成立されました」と書き刻んで後世の日本人に伝えなければならない。

細川護□が「私は料亭は使いません」と格好よく啖呵を切ったのは「政治改革」が空前のブ−ムとなり、小沢一郎が裏で操る「非自民内閣」が誕生した四年ほど前のことであった。それから四年経ち、ホテルの好きな細川は人形町の高級ホテルで賄賂を受け取った事実が発覚して恥をかき、人々は「政治改革」の虚偽意識から目醒めて「景気回復」を求め、そして自民党の派閥の領袖たちは堂々と正面玄関から高級料亭に乗りつけ、テレビの報道記者はそれを追いかけてニュ−スが撮れたと喜んでいる。やっぱり日本人は和食に限る。日本の政治も料亭に限る。四年前、赤坂や築地の料亭は(一晩一人百万円だの二百万円だの政治腐敗の温床だのと)テレビ局からさんざん悪者にされて、ずいぶん辛い思いをしたものである。料亭も派閥とともに大いなる復活を遂げ、公民権を再交付されることになった。

国谷さんがその夜の『クロ−ズアップ現代』をお休みしたのは、英語に堪能な国谷さんが、政治部の連中のあまりに傲慢で無神経な大本営ぶりに嫌気がさしたからに違いない。英語の堪能な国谷さんは、いま自分が解説放送しているニュ−スの情報が英語に直せばどういう表現になるかを、常にポ−リングして検査了解しているはずである。英語に置き換えることのできない不当で隠微でイデオロギッシュな術語を彼女の純白な精神は決して許容することはできないはずである。われわれ市民は、きっとそうだと確信している。


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