なぜ投票率が下がるのか?

−「非政治化」の全体主義 −

1、はじめに −「無党派層」の挫折と「政治改革」の失敗

国政選挙の投票率低下の現象は、九○年代以降の顕著な政治的傾向である。しかしわれわれにとって投票率の低下傾向はすでに十分馴れっこになっている問題であり、今では時間が経過すればするほどに投票率が低下するのが自然で当然の社会現象のように観念されている。自治省が発表する毎回の統計値は、厚生省発表の成人病患者数や文部省発表の不登校生徒数の増加などと同じように、社会的によくないことではあるけれどその傾向に歯止めがかからない、特効薬のない現代社会特有の病理現象として一般に認識されている。

大蔵省不祥事の捜査途中に自殺した新井将敬の欠員補充のために行われた、本年三月の東京四区衆院補選における投票率は、わずか三七%であった。この数字はわれわれの記憶に新しい。未曾有の経済不況があり、金融機関の貸し渋り問題があり、中小企業の倒産と労働者の失業があり、したがって人々が政治に関心を持って、熱き一票を投票所に運ぶべき環境条件は十二分に揃っていたにもかかわらず、投票率は空前の低さを記録してしまうところとなった。東京四区補選は決して無風と言われるような選挙戦ではなく、各党はきちんと候補者を擁立して戦い、党首や幹部たちも続々と選挙区に入って支持を訴え、マスコミも大きな関心を持って見守ったのだが、選挙民の反応は異常なほどに冷たかった。

しかしながら、この低投票率問題への関心は、最近は従来とは少し異なった様相を帯びつつあるようである。第一に、さすがに有権者の六割が選挙をボイコットするという事態が民主主義政治にとって異常ではないかという(程度についての)危機感が出て来たことである。そして第二は、有権者の投票棄権行動について、これまでとは全く正反対の評価が一般的になってきたことである。すなわち、従来は有権者の投票棄権行動について、選挙民による「政治不信の表明」として肯定的に見られていたものが、最近では選挙民の「権利行使の怠慢」として厳しく批判され始めたという社会的な空気の変化である。

こうした論調の変化を示すものの一つとして、テレビ朝日『ニュ−スステ−ション』における久米宏の発言があるだろう。最近の久米宏は投票率低下問題について、視聴者に対して繰り返し警告を発し続けている。その主張は「投票を棄権することは、結局のところ現在の政治を信任承認することだが、それでいいのか?」というものである。この議論は彼自身の以前の主張と全く逆のものである。かつて彼は「投票率の低下は国民の政治不信の率直な表明であり、有権者の半数が投票を棄権する事態は、すなわち現在の政党と政治家が全て不信任されたことを意味する」と語っていた。そのとき投票をボイコットしている有権者は、投票したくても選択肢を持たされていない政治的意識の高い人間であると位置づけられ、「無党派層」という積極的な規定が与えられていたのである。投票率低下の病理を招来した責任は、全て既存の政治家の堕落と政党の混迷とに帰せられていた。

振り返ってみれば、当時のマスコミの大半の論調が久米宏と同様であったように思われる。有権者の投票棄権行為は積極的な意味での政治不信の表明行為であり、政治的不信任のプロテストであると解説されていた。無党派層は政治的エネルギ−を内に秘めた真剣なプロテスタントであり、政治改革を志向する新たな政治的主体であると肯定的に意義づけられていた筈である。現在では、その行為は政治の現状への無条件的信任でしかないのだとして、正面から否定されるべき存在となっている。投票棄権行為も、無党派層なる政治単語も、その評価はわずか数年で一変してしまった。無党派層はプラスシンボルからマイナスシンボルに完全に逆転してしまったのである。

このように無党派層に対する社会的空気が一変すると、何故マスコミはその無党派層なるものを積極的に担ぎ上げたのか、いったい誰が投票棄権行為を政治的抗議行動であると意味づけしてしまったのか、という犯人探しに関心が移行することになる。無党派層の概念の生成と浸透は、明らかに九○年代初めに一世を風靡したあの政治改革のム−ブメントと無縁ではない。中選挙区制を小選挙区制に変え、二大政党制の政治体制を実現しようとして精力的に世論操作に動いたデマゴ−グたちによって、この政治的造語が積極的に活用された。政治改革(=小選挙区制)は無党派層の人々のために提供される大いなるプレゼントであった。

「政治改革」のム−ブメントは、ものの見事に小選挙区制の導入として結果し終えたが、小選挙区制に変わっても投票率が反転上昇するという結果には全くならなかった。小選挙区制の下で、国民一般、特に若者層の政治離れはさらに一層深刻な様相を呈している。今回考えようとするのは、現代日本政治における投票率低下の傾向についての理解の試みである。この問題については誰もが関心を持っているに違いないのだが、これまでのところ私自身、特に納得的に感じられる説明に出会えていない。

昨年の夏に『なぜ共産党が伸びるのか』について自分なりに考えてみたことがある。それは当時、「なぜ共産党が伸びるのか」を論じているものがあまりに少ないことに不満であったからであり、また、私と同じ視角からその現象を解読している論者が一人もいなかったからである。共産党が勢力を伸ばしている現実は一年後の現在も変わることなく続き、それを「窮乏化」から説明しようとする私の観点も当時と些かも変わっていない。加藤哲郎先生からは「窮乏化」を共産党躍進の根拠として見出すのは現状認識としてどうかというご批判をいただいたが、私はなおその見方に固執したままである。すなわち、現在の日本経済の危機が何らか緩和され、再びバブル型の蓄積循環軌道へと反転したならば、日本共産党の躍進は頭打ちになるに違いない。


2、選挙と募金

私の仮説は、現在の日本の多くの人々において、選挙が次第に募金のようなものになっているのではないかということである。

選挙は投票用紙を投票箱に入れる。募金は小銭を募金箱に入れる。小銭を入れると同時に署名を求められる場合も多い。現在でもシ−ズンになれば、NHKのキャスタ−や国会議員が「赤い羽」や「緑の羽」を上着の左胸に付けて登場する。それは日本の年中行事の一つである。しかし「赤い羽」にせよ、「緑の羽」にせよ、「歳末助け合い」にせよ、国民一般の関心は以前と比べてずいぶん薄くなってしまったように思われる。かつての日本人は、募金という形態で街頭で接するところの社会扶助活動に対して、もっと積極的であり、もっと受容的であった。

現在では、駅前でそれを見かけても、黙って素通りしてしまう。何の目的の募金活動なのか一瞥することもない。募金に対して無関心になっているのである。駅前や大通で誰かが募金活動をしていても、それには目を向けようとせずにサッと通り過ぎる。なるべくそれに関わりを持たないように、また募金活動家の側から注意を向けられないように、表情と感情を抑制して、無機質的な群集の一人として足早にその場所を通り過ぎてゆく。われわれは募金に対して常にそういう反応をするように自ら演技し訓練をしてきたのであり、長年の訓練によってそれが習性として完全に身についてしまったために、今では視界中に募金関係の情報(信号)を認めるや否や、条件反射的に拒絶の態度を起こすようにプログラムされているのである。募金運動の前を避けるようにして通り過ぎるのが現代人である。

その現代人も三○年前までは決してそうではなかった。街で誰かが募金活動する姿を見かけたならば、むしろ今とは全く正反対に、条件反射的にポケットに手を突っ込んで小銭を探していたのが当時の日本人であった筈である。もしタイミングを逸してしまって、そのとき募金を投ずることができなかったなら、何か悪い事でもしたような重い気分になって、通りを歩きながら暫く後悔の念にさいなまれたりもしたのである。社会的弱者は一人一人が手を差し伸べて助け合うのが当然であり、助け合いの輪の中に自分も率先して入るのが自然であった。われわれは募金活動に対してセンシティブであり、ナイ−ブであった。

ノスタルジックに昔話をしやがってと思われる人も多いだろうから、(特にインタ−ネット社会に巣食って悪態の限りをつくしている倫理破壊主義者のために)最近の問題を考えてみたい。われわれは三年前の阪神大震災のとき、自ら進んで義援金を供与しただろうか。被災地の呼びかけに応じて、水や食料品や衣料品を送り届けた経験を確かに持っているだろうか。救援物資も義援金も全国から大量に集まったのだけれど、実際にはテレビで毎日震災の報道を見ながら、救援の呼びかけを何度も聞きながら、何もせずに清ませてしまった人間の方が圧倒的に多かった筈である。

被災者の苦しみを了解し、救援物資や義援金を送る必要性もよく理解し、自分も何か役に立とうという気持ちを持ちながら、実際にはそのための具体的行動を最後まで起こすことなく、時間をやり過ごしてしまったという人が多かったのではあるまいか。政府や兵庫県や神戸市の行政の怠慢を批判する一方で、自分自身は実は傍観者だったという人が多いのではないだろうか。一歩踏み出すことに躊躇したまま、傍観者として最後まで立ち止まる自分を無意識的にも容認してしまう現代人の態度と心性。

募金に対して日本人が消極的になった事情として二つのことが考えられる。一つは高度経済成長によって日本社会が豊かになり、生活の貧困に悩む人間の数が激減したことである。経済成長に伴う福祉諸制度の充実によって、社会扶助を推進する役割の期待も、市中の善意の直接的調達から行政の予算措置の方へと重心を移して行った。人は自分が豊かになれば、貧しかった頃の自分を忘れ、貧しい者へのいたわりの気持ちも薄くなる。七○年代の半ば以降、街頭で募金活動をしている人間そのものが、むしろ奇特で例外的な(したがってその意味を直ちには肯定しにくい)社会的存在へと変わって行った。

二つ目の事情は、実際に募金運動の現場に新興宗教団体が踏み込み、虚偽の名目で人々を欺いて資金集めする悪質な街頭活動が目立ち始めたことである。「善意で募金をしたら騙された」という体験を持たない人はいないであろう。七○年代末以降、渋谷のスクランブル交差点では、統一神霊協会やらオウム真理教やらの怪しげな宗教団体が、「カンボジアの孤児に救いを」などと嘘を言い、通行する市民から金銭を詐取する光景が日常となった。一瞥しただけではその募金活動が本物か偽者かは判別不可能である。人が悪質な宗教団体に献金する愚を犯さないようにするためには、彼は募金箱を避けて通行するようにつとめなければならなくなった。

選挙についても同じような構図を描くことができないだろうか。

民主主義社会に生きる一人の市民として、選挙権の正当な行使を図らなければならないと彼は思う。しかし彼が積極的に投票したいと思う候補者も政党もない。これはと思って一票を投じた候補者や政党には、これまで何度も裏切られ続けてきた。手痛い失敗の繰り返しであった。市民派だの庶民派だの改革派だのと、看板と恰好がよく、耳障りのよい「政策理念」の言葉を吐いて、浮動票を攫って行った連中ほど、選挙後には荒っぽく有権者を裏切って行った。

八八年、リクル−ト事件で自民党が金権腐敗の地獄の底に落ちたとき、「山は動く」と言うから土井たか子の社会党に一票入れて期待したけれども、三年後にはその社会党が宿敵自民党と連立内閣を組み、選挙公約をあっさりと裏切って、あろうことか党の命である基本政策まで転換して、自民党補完のミニ保守政党になってしまった。

九三年、細川護煕の日本新党に期待して大いなる一票を投じたのだけれど、政治改革を訴えた細川護煕自身が佐川急便から汚れた金を貰い、オレンジ共済事件で捕まった詐欺師の友部達夫にカネで参議院議員のポストを売っていた。小沢一郎と斎藤次郎の操り人形になって「腰だめ国民福祉税」を画策し、それが失敗した途端に乱心して政権を放り投げ、日本新党もあっと言う間に解散してしまった。

九五年、官僚都政を一新して都政を都民の手に奪還するために、庶民派の青島幸男に颯爽と一票入れたのに、青島は当選するや否や、手のひらを返したように、何の執着未練もなく投票者都民を裏切って都官僚の番犬となり、バブル都政破綻の行政責任を追及しようとする都民から官僚を擁護する反動知事になってしまった。この政治の耐えられない虚しさ..。

結局のところ、選挙で人を騙さないのは、公約を守って利益団体に予算をバラ撒く自民党と、社会主義を目指す共産党と、政教一致を目指す創価学会の三つの伝統的組織政党だけしかない。渋谷の通行人が、悪質な新興宗教団体のニセ募金活動に騙されないために、募金箱から身を遠ざけなければならなくなったように、彼が選挙で騙されないように自衛するためには、投票箱から遠ざかる以外に方法がなくなってしまったということである。

現在、選挙の投票率低下が問題として認識され、低下に歯止めをかけるべく制度的措置が講じられようとしているのだが、本来のところを考えるならば、積極的な政治的意識を持つ人間にとっては、選挙での投票機会はオポチュニティではなくチャンスである。それは彼が描いている政治的理想、彼が持っている政治的目標を達成するための千載一遇の現実的機会である。彼にとってチャンスは多ければ多いほどよい筈である。

そのような政治に対して積極的な人間 − 例えば、町村議会政治に日常的に強い関心を持って接している地方農村部の高齢者たちの世界を想像していただきたいが − にとって選挙は彼の政治行動の全てではない。彼の政治にとって選挙はむしろ最後の一瞬であって、日常関わっている他の政治的部分の方がはるかに大きな比重を占めている。彼には強く支持する候補者がいて、そして次回選挙での当落に大きな関心があり、また常に現在の市町議会政治の動向を情報収集しながら、候補者当選に向けて様々な(田舎の飲み屋での政治談論を含めて)政治活動を行っているに違いない。

その中には、政治宣伝文書(ビラ)を読むことや、支持者名簿に名前を書く(署名)ことや、地域の支持者の会合(集会)に顔を出すことが含まれていることだろう。彼はビラを読んだり、集会に参加したり、署名したりしながら、また場合によっては他の政治的関心の低い人間にそれを呼びかけることさえしながら、選挙戦の本番を迎え、そして投票日を迎えるのである。彼の政治意識は非常に高い。地方農村部の高齢者の全員がこのような高い政治意識を持っているとは言えないかも知れないが、こうした傾向が一般的な地域共同体世界において、国政選挙の投票率が六○%を切るということはまずあり得ないことである。

こうした地方農村部の高齢者の政治生活環境を想像しながら思うことは、裏返して考えてみれば、選挙で七○%の投票率を維持するためには、地方農村部の高齢者が暮らしているような政治的環境が条件として必要であるということである。政治的契機が彼の日常生活周辺に濃厚に存在し、呼吸するたびに政治的な情報が体内に入って来るような社会生活環境でなければ、選挙で高い投票率を出すのは難しいのではないかということである。そしておそらく、一九七○年代以前の日本人というのは、都市生活者であれ、農村居住者であれ、そうした社会環境の中で人々が日常を生活していたのではないだろうか。

職場には労働組合があり、従業員全員に集会への参加を促していたし、時には原水爆禁止等の政治目的の署名や募金を求めてもいたことだろう。週に一度や二度は事業所の前で専従がビラを配っていたのであり、選挙が近づけば組合の選挙宣伝も喧しくなった筈である。何より家庭の中で、子供たちとご飯を食べながら、父親と母親は熱心に政治的な会話を繰り広げていたのである。今度の総選挙は社会党が勝った方がいいとか、隣の家には創価学会が出入りしているらしいとか、向かいの家が遂に赤旗を取り始めたとか、今福アナウンサ−や大塚アナウンサ−のニュ−スが流れる茶の間で、毎晩そういう会話が飛び交っていたのである。

そうやって家族で夕飯を食べていたら、地域の自民党活動家の知人が尋ねて来て、「今度の選挙もA先生でお願いするよ」などと言って、玄関先に清酒の引換券を置いて行ったりしたことも、きっとあったに違いない。父親や母親は、あるいは選挙の度に支持政党を変えるということはあったかも知れないが、選挙の一週間前には誰に入れるということははっきり決めていて、選挙当日も午前中には投票所にしっかり足を運んでいたのである。投票率七○%の世界というのはそういう世界である。そういう社会的環境の前提がなければ七○%という投票率は数字として達成できない。

投票率が下がっているのは、無党派層が増えているからとか、政治不信が高まっているからとかではなく、政治についての基本的知識が現代人において圧倒的に減少しているからではないのだろうか。政治に関する知識を持たない人間が増えているということなのではないだろうか。特に若い世代において投票率が著しく減少している(都市部の二○代は投票率二○%台)のは、彼らが政治について何か考える判断基準としての知識が欠落しているからではないかと思われてならない。

人は誰でも知識の無い問題について思考せよと言われれば苦痛である。たとえばコンピュ−タを使ったことのない人間が、道を歩いていて、突然誰かに「新しいWindows98について論評して下さい」などと訊ねられても、彼は面食らって困ってしまうに違いない。知識のない問題については論評などできない。それでは今回は見逃してあげますから四年後の次回は必ず回答をして下さいと言われたとしても、四年後に果たして明確な答を用意するかどうかは疑問である。よほどのペナルティが待ち受けていない限り、何度でも「私は論評できません」と繰り返すのではあるまいか。「一体そんなことを論評させて何の意味があるのですか」と開き直るかも知れない。

「Windows98」ではあまりにアナロジ−として突飛であるかも知れない。しかしそれでは「最高裁判所裁判官国民審査」ならばどうであろうか。

低投票率であらわされる現代人の政治的無関心は、実は政治的無知識ではないのか。本質的にはそういうことではないのか。知らないから思考することができない、知らないから判断することができない、知らないから関心を持つことができない。そういうことなのではないだろうか。政治に関する情報を取り入れて判断する回路が自分の中にない、政治的情報を必要な情報として取り込んで処理出力するべきプログラム機構がない、そういうことであるように思われてならない。すなわち政治一般についての知能が薄弱であり、知的蓄積がなく、情報を入力してもメモリ−オ−バ−フロ−のエラ−となり、とても選挙で投票するまでの主体性に至らないということである。

たとえば一○歳の小学生に向かって、今回君に選挙権をあげるから、民主主義社会の一員として責任を持って一票入れて来なさいと言っても、当の子供はきっと戸惑って混乱してしまうことだろう。誰に投票すればよいか自分では判断できないからである。権利を貰えることは歓迎するかも知れないが、投票することはきっと負担になるだろう。政治的関心のない人間、政治的主張のない人間、政治的問題意識のない人間に、日本の政治を真面目に考えて清き一票を入れろと言うのは、重圧感のある精神的半強制であるに違いないのである。


3、「非政治化」の全体主義の諸局面

(1)会社における「義務と演技」

『義務と演技』というドラマが二年ほど前に話題になったことがあった。現代人は政治に関してあらゆる社会的関係において「義務と演技」をしなければならない。ドラマの「義務と演技」は、妻が夫との性生活に満足しているフリをする「義務と演技」であったが、現代人は「自分が非政治的な人間である」という演技を人前で完璧にしなければならない。

企業はデフォルトとして非政治的人間を人材として採用する。政治的関心の高い学生は企業には不要である。それを採用することは企業にとって不要どころか害悪である。学業成績がどれほど優秀であっても、面接試験で政治的異臭を漂わせてしまったならば、その学生は直ちに不採用となる。右であれ、左であれ、政治的な立場や意図や背景を持った人間は、企業内部から完全にシャットアウトしなければならない。政治的塵芥の侵入を阻止して企業を政治的無菌のクリ−ンル−ムとして維持保全すること、それが人事労務部門の任務である。日本の企業社会において政治と宗教は絶対的な禁忌である。

会社が採用した新卒社員はデフォルトで政治に関心のない非政治的人間である。したがって新入社員となった瞬間から、彼は非政治的人間としての完璧な役割演技を自らに強制しなければならない。残業の後で上司に酒席に誘われた時はもちろんのこと、昼休みに同僚と食事する時の会話でも、さらには会社の友人が休日に部屋に遊びに来た時でも、彼は注意深く非政治的人間を役割演技しなければならない。政治的に色付きであるという噂が社内で広まることは、彼の会社人生において決定的なマイナス評価となるからである。

厳密な減点法で人事考課する日本企業の評価システムにおいて、その社員が何らか政治的関心を持っていると見做されてしまえば、彼はすぐに同期グル−プの出世競争から脱落してしまうことになるだろう。一度脱落すると復活はきわめて困難である。能力や業績などというものはひたすら評価しにくいが、遅刻や不倫などという失点は誰でも分かり易いものである。誰もが減点対象にならないよう懸命に自己防衛する中で、他人の失点は競争者にとって実にありがたい神の恵みである。企業社会において公然と政治的態度を示す人間は、すなわち出世競争を放棄した脱落者である。好況下では単なる出世競争の放棄で済むだろう。不況下であればリストラ要員として挙手することを意味するに違いない。

非政治的属性がデフォルトである企業社会の中で、普通に生き伸びようとする普通の人間は、政治に対してどのように演技すればよいのであろうか。擬似強制収容所的な思想監視システムの中で、幾重にも張り巡らされたトラップをどのようにかいくぐらなければならないのだろうか。彼が企業社会の中で政治思想的減点の罠に引っ掛かることなくサバイバルするためのマニュアルは次のようなものである。

すなわち、上司であれ、同僚であれ、得意先であれ、何か政治絡みの話題が相手から問いかけられたならば、そのときは「×日の日経ではこう書いていましたね」と日本経済新聞の論説や社説をもって穏やかに対応することである。それは朝日新聞ではいけないし、産経新聞でもよろしくない。日本経済新聞でなければならない。無論、沈黙してしまうのも不細工である。つまり政治には積極的関心はないのだけれど、たまたま日経の熱心な読者であったがために、その問題に関する日経の論調や主張を思い出して、その場に応じた答を返したというパタ−ンこそがベストである。日本経済新聞の政治性を非政治性として積極的に受け止めて活用すること。それが企業人となって生きる者の非政治性役割演技ノウハウである。

彼は熱心な日経読者となって(共産党員が赤旗新聞を読むように)マニュアルの実践を貫徹し、企業内政治監視網をかいくぐり、そして企業で一○年を過ごし、一五年を過ごすことに成功する。そして見事に競争レ−スから脱落することなく、晴れて中間管理職の地位を展望するところとなる。しかしそのとき非政治的態度の偽装は、演技ではなく彼の自然な社会的態度となり、彼自身の感性になってしまっているのである。周囲を欺くための偽装的役割演技と自分本来の内的政治思想という二つの間の対立と緊張が、いつの間にか消失してしまっていることに気づく。

彼が了解する真実は結局こういうことだろう。自分だけでなく全ての人間がこれまで同じ役割演技をしてきたのであり、現在もしているのである。誰もが自分を押し殺して非政治的人間として偽装演技しているである。それは会社が一人一人の社員に強制することである。しかしその強制には意味がある。会社とは従業員に非政治性を要求するものであり、従業員はそのシステムを受け容れなければならないのである。

そうして彼は、今度は逆に、社内監視システムの積極的な一部となって、若い社員に対してトラップを仕掛ける側へと自然に転向して行くのであり、日経新聞のマニュアルをそれとなく示唆して、新入社員のサバイバルル−トを方向づけて行くのである。成功は人間を変える。非政治性の貫徹によって成功を得た彼にとって、その演技はすでに苦痛ではないのである。

企業社会は構成員として非政治的人間をデフォルトとする。政治的関心のない人間である方が望ましく、政治的知識のない人間であることが好まれる。政治的契機は企業の中から徹底的に排除される。そして日本経済新聞の「政治性」のみがフラットでニュ−トラルな社会科学的インテリジェンスとして唯一容認され、内側に柔らかく強制的同質化されるのである。そして二○年の間に日本経済新聞の認識回路を首尾よく内面化できた人間のみが、ようやく四○歳を過ぎてから『月刊プレジデント』クラスの知性と思想の自由を獲得して、部下たちを前に言論することができるようになるのである。

(2)家庭における「義務と演技」

安らぎの場である家庭の中には、特に政治的に、何の義務も拘束もタブ−もない筈である。会社の中で精神を緊張させて非政治的人間を演じきった彼は、家に帰り着いた途端に本来の自分を取り戻し、久米宏や筑紫哲也の報道と解説に耳を傾けながら、納得したり、共感したり、反発したりして、自分の政治的感性を再確認している筈である。夫婦の間でそうした会話を支わし合っている筈である..が、本当にそうだろうか。

こういう問いを発してみたい。自分の妻が前回選挙で誰に投票したのか知っている夫は果たして何割いるだろうか。自分の妻が投票所に足を運んだかどうか確認した夫は何割いることだろうか。妻と一緒に二人揃って投票した夫婦は全体の何割を占めるだろうか。実際には、妻の政治行動に対して無関心な夫がほとんどなのではあるまいか。夫がどういう政治的立場や政治的主張を持っているのか無関心な妻がほとんどなのではないだろうか。われわれは国政に無関心になっている以上に、周囲の人間の政治に鈍感になり、無関心になっているのである。

ほとんどの夫婦が、家庭で政治の話はしない筈である。それは意識的に避けられている筈である。少年少女のナイフ殺人事件や援助交際売春については、子を持つ親として黙っていられないかも知れない。ダイオキシン問題や産業廃棄物処理場問題については、自ずと互いに口を開いて語り合っているかも知れない。しかし小沢一郎の「保保」がどうとか、管直人の「オリ−ブ」がどうとかいう話を、互いに掘り下げて議論するということはあるだろうか。妻は夫の、夫は妻の政治的立場や政治的主張を詳しく知らない筈であり、またそれを深く知ろうとしていない筈である。やはりここにおいても、それを深く議論しないのがデフォルトなのである。会社ほどの厳しい強制作用はないのだけれど、よく考えてみれば、家の中の夫婦関係も「非政治的」がデフォルトなのであり、政治は夫婦の関心外の問題としてそっと放置しておくのが賢明なあり方となっているのである。

何故そうなるのだろうか。それはきっと、夫婦における政治的契機排除の起源が、二人の結婚のときにまで遠く溯るからに違いない。結婚するとき、夫は妻に非政治的人格を求めるのであり、妻は夫に政治的契機の廃絶を要求するのである。女とその両親にとって、結婚相手の男性とその家族が共産党であっては絶対に困る。創価学会であってもやはり困る。狂信的な右翼や統一協会であっても非常に困る。それは窃盗前科一犯と同じかそれ以上に厄介な問題である。将来を託す相手である夫は非政治的人間であればあるだけよく、熱心な日経読者であればあるだけよい。それが今の時代の当然である。普通の人間なら政治的関心は持っていないのであり、自分の配偶者となる人間もその当然の中の一人でなければならない。男の方も同じである。媒酌人は直属の上司である。結婚する相手が共産党や創価学会や統一教会であってよかろう筈がない。

したがって現在において、結婚は両性の非政治化宣言である。これからは非政治的人間として社会のデフォルトに則って仕事と家庭(生産と再生産)に一生懸命尽くしますと決意する儀式である。非政治的デフォルト人間としての生き方を公約した上で結婚の関係に入った以上、夫婦にとって政治は柔らかい禁忌である。夫は非政治的人間として期待される役割を演技し続けなければならない。そして妻は夫を出世競争レ−スから脱落させないためにも、夫の非政治性を維持管理する方向で立ち振る舞わなければならない。妻は夫の非政治性を維持保全する監視システムの一部となるのである。異常を発見すれば直ちに警告を鳴らさなければならない。夫が結婚後も朝日だけを読んでいるようであれば、日経を購読するように自ら仕向けて行くのが現代の賢妻の役目というものである。

日経新聞のデフォルトを共通の公約として是認している二人の関係において、政治は熱っぽく語られてはならないものである。必要以上の関心をもって議論してはならないものである。日経新聞が加える以上のコメントは加えてはならない。日経新聞の紙面のレベルを超えた知識や評価は不要である。夫は妻を相手に政治の話をしてはならない。妻の前では(仕事に熱心で)政治には無関心な男を役割演技し続けなければならないのである。語り合うことがなければ、深く知ることもない。新しい観点や認識が入ることもない。

そういう夫婦に役場から選挙案内が届けられ、投票日が静かにやって来て、そしてその日が過ぎてゆくことになる。夫は妻が投票に行ったのかどうか知ることなく、妻は夫が誰に投票したのか知ることなく、その日が終わって、次の月曜日の朝を迎えるのである。

(3) ネイティブな非政治的人間の生産

さて、賢明な読者の皆様にもう一つ質問をしてみたい。一昨年の衆議院総選挙で正しく投票したあなたは、自分が具体的にどのように選挙権を行使したのかについて、自分の子どもに正直に話しただろうか。七月の参議院選挙で誰に投票するかを、夕食の食卓で子どもに話して聞かせているであろうか。親がたくさん政治の話をすれば、子どもは政治に関心を持つ。親が政治の話を避ければ、子どもも自然に政治には関心を持たないようになるだろう。投票率七○%の世界とは、親子が食卓で自然に政治の話をする世界であり、親を通じて子どもも政治的意識を育んでいく世界である。

親が子どもの前で政治の話をしないのは何故なのだろうか。それはまず何よりも、現在の日本の中学生や高校生が、政治に関して無関心なのがデフォルトであるからである。余計なことに関心を向けずに受験競争での成功だけが求められている人間だからである。親は子どもに余計な知識を与えてはならず、邪悪な思想的関心を持たせてはならない。政治は性と同様の禁忌である。

そしてもう一つは、親が政治についてうまく子どもに語ることができないからである。その親が政治的理想を持たず、政治的希望を持たず、政治的目標を持っていないため、子どもに対して政治を積極的に語ることができないのである。子どもに政治について訊かれても、それを意味あるものとして説明することができない。結局のところ、政治とはきわめて無意味な世界で、政治家は腹黒くて卑劣な人間であるというようにしか説明しかできないのである。こうして子どもにとっての基本的な政治観が出来上がる。すなわち、

政治は汚いものである。政治は無意味なものである。 政治家は嘘つきである。奇麗事を言って人を巧みに騙す詐欺師である。 政治に関心を持ってはならず、政治に関わった人生を持ってはいけない。 政治に関わると騙されて大損をして、人生の失敗者になってしまう。

この政治的認識が彼のデフォルトとなるのである。こうして生まれながらの非政治的人間が出来上がるのであり、彼が成長して企業に入っても、彼には非政治的役割演技の必要はない。マニュアルは要らない。企業が期待する非政治的デフォルトをネイティブモ−ドで立ち振る舞うことができるからである。そのかわり何のためらいもなく、彼は選挙を棄権することができる。投票に行かなくても心が傷むことはない。無意味なことには関わらない方がよいのであり、汚い政治家たちに無理に票を貢いでやる必要はないからである。

何より彼には十分な政治的知性がない。政治的判断基準を持っていない。彼の父親が持っていたほどの限られた政治的情報処理能力すら具備していないのである。彼の政治的知性はあまりに矮小であり未発達である。立候補者の選挙公約を調査する行動へと自分を駆り立てるほどの政治的関心の原動力がない。投票日を迎えても、立候補者について評価判断する材料を何も持っていない。各政党についての漠然としたイメ−ジのみである。父親からも何も聞いていない。友人たちも投票には行っていないようである。投票しないのが普通である。赤十字の献血のような面倒なことはしたくないし、しなくていい。

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