読売新聞 96年8月19日 朝刊1面


丸山真男氏 死去

戦後の「政治思想」リード


戦後論壇に一時代を画した政治学者の丸山真男さんが、八十二年の生涯に幕を閉じた。政治における理想の重要性を強調し続けた進歩派を代表する知識人。現実重視の論客からの批判もあったが、講和論争から六〇年安保に至るその言論活動は、激動期の社会や論壇に大きな潮流をなした。亡くなった十五日は、くしくも丸山さんが戦後日本を見据える原点とした終戦の日。訃報が伝わると、幅広い影響力を物語るかのように各方面に波紋が広がった。

丸山さんが亡くなった八月十五日は、ある意味で因縁の日。終戦のまさにこの日、丸山さんは母親を亡くしている。自身もその直前、広島市郊外の陸軍船舶司令部で原爆を体験、九死に一生を得て、一等兵として被爆した市街の復旧作業に携わっていた。その体験がいわば戦後の出発点に。

<日本をあの破滅的な戦争に駆り立てた内的な要因は何であったのか?>。こうした問題意識が論壇デビュー作「超国家主義の論理と心理」を生み出し、その後の論壇活動のエネルギーとなった。

以後、講和論争や六〇年安保闘争を舞台に戦後論壇の一方の支柱として、積極的に発言していく。保守派からの「現実を見据えていない」などの批判に対しては、<大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」に賭ける>と言い切り反響を呼んだ。

こうした象牙の塔だけに閉じこもらない幅広い活動の背景には、著名な新聞記者だった父幹治氏の存在があった。東京に移り住み、高校時代から、父と親しかった評論家の故長谷川如是閑邸に出入りしていたことなどが、ある種のジャーナリスティックなセンスをはぐくんだ。

言論活動以外でも、音楽への造詣が深く、また無類の音楽好きで知られ、一学究にとどまらない教養人といわれたのも、生い立ちと無縁ではないようだ。

しかし、東大紛争後、急性肝炎を患ったこともあり教授を退官。以後はマスコミや論壇から遠ざかり、専門の日本政治思想史研究を深化させていった。晩年になってからは自身の軌跡を振り返り、専門の日本政治思想史研究を「本店」、論壇活動を「夜店」と呼ぶことも。

丸山さんは九四年一月、肝臓がんと宣告され、入退院を繰り返していた。今年六月に最後の入院をしてからも、昨年秋から刊行中の「丸山真男集」の原稿のゲラの校正に余念がなかったという。先月九日に亡くなった経済史家の大塚久雄さんの告別式では、病床から「遠からず、私もその道を歩む」と弔辞(代読)を寄せていた。家族の意向で、死亡の公表は控えられていたという。

大江健三郎さん「残念です」

丸山さんの死去の報は、生前、深い親交を結んでいた人たちにもこの日まで知らされていなかった。

プリンストン大学で教壇に立つため、さる十日に渡米した作家大江健三郎さんは電話で「大変残念です」とだけ。刊行中の「丸山真男集」に推薦文を寄せ、米国での講義「日本の知識人の自己表現」でも、丸山さんを取り上げる予定だっただけに言葉の出ない様子。

劇作家の木下順二さんは「ぼくの作品にも深い洞察と鮮やかな分析を示してくれた。時代の良心として彼が存在していたような気がしていただけに、寂しい」。また作家の埴輪雄高さんも「偶然、近所に住んでいたこともあって、得るところが多かった。ぼくらの近代文学は哲学的だったが、それは丸山真男が同時代にいたことと切り離せない」とその死を悼んでいた。