「古層」論へ序章


1、はじめに − 丸山真男ブ−ムのなかで

「その時代の支配的な思想はすべて支配階級の思想である」と言ったのは、カ−ル・マルクスであった。けれどもまた同時に、その時代の支配的な思想は、実のところ常に自分自身の思想でもある。人は生きてゆくために所与の周囲と共同関係に入らなければならない。そして人が共同して生きようとするかぎり、その時代時代の支配的な思想は、その人間の鼻から口から、次々に体内へと吸い込まれて内臓器官に付着して行く。最初はそのウィルスに対して若干の抗原抗体反応を起こすことがあっても、どこかで折合をつけられる部分はないものかと自分の方から可能性を探し求めるようになる。本質的にはどのように悪質な思想性であっても、それが耳や鼻や口から絶えず内側に入って来るものであるかぎり、完全に遮断、拒絶することはできず、逆に無意識的にもそれを摂取し、それと共存しながら自分自身を活かす道を探し出そうとするのである。

今は、こうして『丸山真男集』が書店で売れ、丸山真男特集雑誌に人が群がり、学会で丸山真男が熱っぽく集中討議される時代となった。日本一の規模を誇る八重洲ブックセンタ−では、一階エントランスに丸山真男の写真看板が大きく立てられ、NHKビデオ『丸山真男と戦後日本』が堂々ワゴンセ−ルスされる大盛況ぶりである。今、丸山真男のブランド・エクスポ−ジャ−は史上空前のレベルにある。そのフォロ−ウィンドを心地よく背中に感じながら、このようなインタ−ネット上での貧しい知的試行錯誤を続けて行くことができる。私に孤独感はない。けれども今から一○年ほど前、日本中が空前の好景気に浮かれ、誰もが小金持ちの夢に小躍りしていた頃は決してそうではなかった。

意味だの価値だの理念だのをこの世に問うことは、古臭くて反時代的で、「今」について行けない貧乏で惨めな人間のすることであった。人に嘲りを受けながら貧乏生活を敢えて続けようとする「クサくてダサい」人間の生き方そのものであった。ほとんどの日本人が当然のようにカネを掴んで理念をドブに捨てていた。「拝金棄理念」の思想を夜毎熱心に布教していたのは、小沢一郎信奉者の低能芸能人であり、日本中のテレビとマスコミであり、そして新しいアカデミ−の王国を建国した若い愚か者たちであった。『「文明論之概略」を読む』の黄色いカバ−表紙に一人孤独を癒していた当時の私は、一歩書店から外に出れば、ゲシュタポに囲まれたゲット−を放浪する惨めなユダヤ人そのものであった。

その鬱懐を決して忘れることはないけれど、この半ば商業主義的な(ポストモダンの小僧たちにも小銭を呉れてやっている)丸山真男ブ−ムがいつまでも永遠に続くことはないだろう。一○年後の日本は、今われわれ一人一人が思い描いている日本の将来像がすべて目算外れた「想像もできなかった」日本である。人間の心は移ろい易く、支配的思想もまた移ろい易い。その中で一人一人が年をとってゆく。何より大切な大切な短い人生の時間を刻んでゆく。誰にとってもそれがいちばん大事なものである。再び「拝金棄理念」の嵐が日本列島を吹き荒れたとき、私はこのまま、ずっと同じことを言い続けていられるのだろうか。嵐が「拝金棄理念」でなく「八紘一宇」の大復活であったなら、私は一体どうなるのだろうか。


2、古層論の二つの意味 − 日本社会科学のグランドセオリ−、戦後日本人の自己認識のカ−ネル

丸山真男死後のヒットセラ−となった世織書房『丸山真男と市民社会』の中でも突っ込んで議論されているように、古層(執拗低音)論は、丸山真男の思想像をめぐる議論の中でも、最も話題の多いテ−マの一つである。丸山真男の論文はどれも内外から論議の的となる問題作が数多いが、その中でも特にこの『歴史意識の「古層」』は、論者たちから批判と論難の集中する問題作であると言える。それは一九七二年に発表された当初からそうであり、現在まで変わらずそうであり続けていて、そうした周囲からの注目と関心の高さがこの論文を丸山真男の思想史作品の代表作の位置に置いている。

古層(執拗低音)論が多くの関心と話題を集める理由の一つとして、この概念がバッソ・オスティナ−ト、執拗に持続する低音という特殊な音楽用語であったという問題があるだろう。執拗低音論については『執拗低音とシャコンヌ』(中野雄『丸山真男手帖第二号』)に素晴らしい解説が施されているのでご参照賜りたい。音楽用語の日本思想史への方法的導入という意表をついた離れ業が丸山真男によって演じられたという点において異例であり、日本の思想界における画期的な事件であった。この丸山真男の方法論的挑戦は、思想史研究のスタイルを従来の固定的な枠組から限りなく自由な世界へと解放したに違いないのだが、今日までこうした音楽用語の導入に倣ったり、また新たな境地の開拓を試みようとする新規の思想史家の登場を見ないことは、思想史の読者として非常に残念なことである。

音楽用語である「執拗低音」の思想史学への導入は、思想史方法論における表現と思考の自由の獲得であったのと同時に、読者に対する丸山真男の一つの作為、すなわち音楽世界への積極的な勧誘としても了解することができるに違いない。古層(執拗低音)論を読んだ者は、その意味を理解するために実際に執拗低音を聴かなければならない。そうしなければ本当の意味は理解できない。今後、丸山真男を読む者は、必ずバッハの『シャコンヌ』に耳を傾けることになるであろうし、また『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティ−タ第二番』を聴くたびに、丸山真男の『歴史意識の「古層」』に思いを馳せることになるだろう。これからの日本の歴史において、この二つの作品は永遠に「同行二人」の旅路を歩んで行くのである。

最初に、簡単に私自身の古層論についての考え方を言うと、まず第一に、この理論が丸山真男という哲学者によってわれわれ日本人と日本の社会科学に与えられた普遍的な原理論、グランドセオリ−であるということである。マルクスの史的唯物論に匹敵する荘厳にして強力な、誰もそれを無視して何かを思考したり前へ進むことのできない根本的な原理論であり方法論であるということである。常識として一般社会に定着し、観念として一般社会を拘束し、要請として一般社会を動機づけてゆく社会理論として、この古層論以上に高度で堅牢な社会科学的認識をこれまでの日本人は持ち得ていない。グランドセオリ−である古層論は(マルクスの史的唯物論と同じく)永遠に人々によって議論され続けてゆく。

第二に、この古層論は戦後民主主義の自己認識の理論であり、過去に戦争を惹き起こしてアジアに空前の惨禍をもたらせた日本人自身の反省的な自己認識であるということである。現在の時点においても、この古層論の自己認識は日本人の自己認識として決定的な位置にあるものと言える。日本国憲法が廃絶されないのは、多数の日本人がこの反省的な自己認識を維持し、それを自らの最終的な良識として支持しているからである。一人一人の日本人が誠実で謙虚な心を持ち直して自分を見つめたとき、必ず見えてくる深層の風景が、まさにこの対象化された「古層」に他ならない。したがって『諸君』や『正論』などに集う改憲勢力が、死せる丸山真男を仇敵の首魁のように日夜つけ狙うのは、この日本人の肌身にしみついた自己認識(右翼論者が言うところのマインド・コントロ−ル)を何としても叩き潰さんとするがためである。

無論、この自己認識は、ただ太平洋戦争の惨禍の記憶とのみ否定的に繋がる戦後的な歴史意識であるにとどまらない。むしろ日本人においてきわめて日常的で現在的な自己認識であり、身近な自己認識であると言える。丸山真男という名前を知らない者でも「無責任の体系」の表象と観念を持っている。丸山真男を読む以前から、自己批判的な日本人認識としてその表象を持ち、その言葉を使って身の周りの事実を説明し了解している筈である。住専問題や証券不祥事や総会屋事件などの社会事件に接する度に、われわれは責任の所在を明確にせず事態を曖昧なままに終息させてゆく日本人特有の行動様式を再発見し、そこに「無責任の体系」を自覚するのである。

また、この「無責任の体系」の自己認識の議論においては、政治的立場の左右はほとんど関係ないようにすら見える。誰もがこの「無責任の体系」を論拠にして、事件を起こした当該組織を糾弾したり、日本人一人一人に反省を迫ろうとするからである。丸山真男を『諸君』『正論』『読売』『新潮』等の月刊諸誌上で執拗に攻撃する右翼論者自身が、この「無責任の体系」の論点に立って現在の日本社会一般を批判するが如き倒錯した光景が屡々散見される。自分が社会時評で「正義の味方」になるときは「仇敵の首魁」を一時都合よく忘れるのである。

グランドセオリ−と言い、戦後日本の中核的な自己認識と言うとき、すでに私自身の言う「古層論」の範囲は一つ「古層」論文のみにとどまらず、『日本の思想』さらに『超国家主義の論理と心理』まで溯って含むものであるのだが、この反省的な自己認識(=社会認識)が戦後民主主義の日本人を支え、導いてきたカ−ネルでありエンジンであることを、あらためてここで確認しておきたい。


『歴史意識の「古層」』が発表されたのは一九七二年である。これは丸山真男自身における本格的な「思想史方法論」の初めての論文化であり、長年あたため続けてきたオリジナルな方法の完成であり、発表であった。と同時に、それまで(少なくとも発表されたものの上では)近世以降を守備範囲としていた丸山真男の思想史の歴史的対象を、一気に上代まで溯らせて、日本的原像の核心をつき、その歴史的全体像を捕捉しようとする野心的な挑戦でもあった。二重三重の意味で読者をあっと驚かせ、それまでの「丸山政治思想史」の固定観念を大幅に覆した画期的な作品である。

一九七二年の『歴史意識の「古層」』発表以後の丸山真男の研究成果は、すべてこの古層(執拗低音)の方法論を明確に前提としたものとなっている。一九八○年の『闇斎学と闇斎学派』、一九八五年の『政事の構造』、また今回『丸山真男手帖』に掲載された一九八一年の本荘市での講演『日本の思想と文化の諸問題』等において、われわれはその航跡をよく了解することができる。『日本の思想と文化の諸問題』は、今回「手帖の会」によって蔵出しされた講演録であるが、講演時間三時間分のボリュ−ムを持ち、内容の面から見ても今後きわめて重要な位置を占める作品となるに違いない。

しかしながら、丸山真男に関して言えば、まず初めに思想史方法論を開発・完成させて、その後で、その方法を駆使して思想史的成果を多産し、体系構築して行ったと言うのではなく、むしろその方法的完成までの過程において、持てる研究時間の大半を費やし、かつ多くの不朽の名作を産み落としてきた研究人生であったと言うことができる。『歴史意識の「古層」』を成したとき、丸山真男はすでに五八歳、その一年前に東京大学法学部を退官して、少なくとも役職上はアカデミ−の第一線からリタイアした身の上となっていた。

通常、マルクスの史的唯物論の完成の時期は、例の有名な「導きの糸」の公式の簡潔な叙述、すなわち『経済学批判』の短い序言をもってすると言われている。 その発表は一八五九年、マルクス四一歳のときであった。以後、その史的唯物論の方法の経済学への適用である資本論研究への没頭が、後期マルクスの人生の大半を占めるようになり、畢竟の大作『資本論』が完成することになる。マルクスの代表作は誰が何と言っても『資本論』であり、マルクスの人生は『資本論』を書き上げてそれを世に問うた人生であった。

無論、それに至る初期・中期マルクスにおいても、息を呑む傑作は数多く存在する。『経済学・哲学草稿』、『ドイツ・イデオロギ−』、そして『資本主義的生産に先行する諸形態』。理想と野望に燃えて思弁の火花を散らせ、ヘ−ゲルやフォイエルバッハやプル−ドンに突撃する情熱の二○代、自らの歴史的使命を自覚して荘厳なプランの前に祈りを捧げる充実の三○代。「導きの糸」の公式に至る若いマルクスの思索過程の作品群は、社会科学の方法論を考える者にとってどれも珠玉のものばかりである。けれども晩年のマルクスは、まるでそれら全てを過去のものとして整理し忘却したかのように、生涯の大作の完成に向けて経済学研究に没頭するのである。

社会科学において「方法」という問題を提起し確立したのはマルクスであったと丸山真男は言っている。 DataとProcedureとOutputの三元定立体制が、明確に確立されなければ社会科学にはならないという前提が、今日のわれわれの基本的な常識である。その人間が社会科学者であり、彼の認識が社会科学的認識であるためには、彼の研究は必ずデ−タとプロセジャ−とアウトプットに三分割されなければならない。現在、その社会科学の前提が「揺らぎ」かけていると言われている。安直な「オブジェクト指向」ばかりが流行って、堅牢なプロセジャ−を記述できる研究者が少なくなってしまったようである。

プログラミングの世界において「オブジェクト指向」が(擬似的にせよ)可能になるのは、実は環境(Operating System)がサ−ビスするfunctionに媒介されているのだという背景が存在する。そうした真実を社会科学者にもよく了解していただきたいと思うのだが、イ−ジ−なポストモダン主義者たちには、COBOLにおいてEnvironment Divisionが定義されていたことの意味など全く承知できないに違いない。現在のプログラミングの主流はscriptである。しかし過去においてプログラミングとはまさにdefineする作業そのものであった。方法を確立すること、すなわち環境を定義することがプログラマの第一の仕事であり、その「定義」の規定を受けて、初めて「手続」を記述することができたのである。

そしてこのとき、方法論とはまさしくプログラマの独自の設計思想そのものである。そういう意味では、現在のコンピュ−タ・インダストリ−を概観したとき、確かに「大」のつかない「小プログラマ」ばかりが増えていると言っても過言ではないのかも知れない。それが時流に乗ってメシを喰うプログラマの職業形態であるのだから、誰もその仕事のあり方を疑おうとはしないのである。化け物のように肥大化した環境に寄り添いつつ、表面上のイベント・インタフェ−スのコ−ドを生成するのが現在のプログラミングの一般観念であり、特に若い二○代のプログラマにおいては、それ以外のプログラミングのあり方など想像することさえできないのである。

古層論形成へ至る丸山真男の研究過程を溯って捜索するとき、われわれは二つの事実に気づかされる。それは丸山真男自身が後年繰り返し証言してきたことでもあるのだが、一つは古層論的方法がある日突然に誕生したのではなく、丸山真男の日本論として継続した長い思索の道筋を持つということである。初期丸山真男と中期丸山真男の代表作である『超国家主義の論理と心理』と『日本の思想』は、後期丸山真男の『歴史意識の「古層」』と合わせて“丸山真男の日本論三部作”として括ることができるものである。そこでの問題意識は明らかに一貫しており、断絶もなければ路線転換も見られない。単純化して言えば、『日本の思想』を思想史方法論として編み直したものが『歴史意識の「古層」』である。

しかしながら、それは単に同じ問題意識の延長線上にあるものでもない。それが二つ目の問題である。すなわち「文化接触」の契機の導入であり、六○年代前半の海外留学の期間を通じて獲得され血肉化した方法的視角である。『思想史の方法を模索して』などにも述べられているとおり、この視角の獲得によって、丸山真男の思想史はマルクス的あるいはヘ−ゲル的な歴史的発展段階論から大きく距離をとることとなる。丸山真男に内在して言うならば、歴史発展的な「縦軸」の基準に加えて、空間配置的な「横軸」の基準が視座として追加されたということになるのであろう。

何れにしても「文化接触」的視角の獲得は、丸山思想史学における新たな転回であり、過去からの流れを断絶するところへと機能した。したがって、『日本の思想』と『歴史意識の「古層」』の間には、連続と断絶の二つの側面が存在するのであり、われわれはその両面を見なければならない。一貫した問題意識をヨリ学問的に高度な思想史方法論へと導きながら、従来の歴史主義的思考と決別して新しい視座の構築へと態度を一新させているのである。そして「文化接触」の視角が積極的に導入されることにより、それまでの丸山真男においては見られなかったゲオポリティ−ク、地政学的認識が理論全体に色濃く影を落とすようになる。


3、米谷匡史の「循環論法」批判とその不毛性

Excelなどの表計算ソフトを使用してwork sheetを作製する場合、特に一度作った既存シ−トを拡張して新規に挿入したセルに新しい計算式を埋め込もうとしたとき、屡々「循環参照が解決されていません」のエラ−を発生させてしまうことがある。新規に挿入したセルの計算式の中に、誤ってそのセル自身の相対番地が取り込まれてしまったとき、再計算実行時にこのエラ−メッセ−ジが出ることになる。すなわちセル(数式)とセル(数式)の参照関係が循環して、数式自体が成立不可能になってしまうのである。

米谷匡史による丸山真男の古層論に対する批判も、このような「循環参照が解決されていません」のエラ−を衝いた議論である。米谷匡史に限らず、丸山真男の古層論を誰かが批判しようとするときには、真っ先にこの循環論批判が持ち出されるところとなる。循環論批判は丸山真男の古層論を批判する際の定石であり、丸山真男の読者が丸山真男について何か書かれたものを読もうとするとき、何度となく眼にしなければならない妙に鬱陶しい議論である。当の丸山真男自身が批判者たちに対して直接には何の反論もしていないため、外観としては、何やら古層論は循環論批判のグロ−ブを付けた老若のボクサ−たちのサンドバッグのようにすらなってしまっている。

思想史の方法の議論として、特に有意味でもなければ何の生産性もない循環論批判を、何とかの一つ覚えのように若い論者たちが繰り返して弄んでいる光景は、われわれ丸山真男読者の多くから見てきわめて不愉快であり、日本の思想史研究の不毛と停滞を思わさせられる情けない現実である。丸山真男の方法を批判するという世紀の難事業に挑戦しようとするならば、先ずは己の器量でそれがどこまで可能なのかを自省する方が先決である筈なのだが、「近代はもう終った」とか「戦後はもう古い」などという根拠のない観念と標語が日本のアカデミ−を大手を振って一人歩きしてしまっているために、誰も難題を難題として自覚することがなくなってしまった。

米谷匡史の循環論批判の部分を引用しよう。

すなわち、後代に外来思想が変容をうけるパタ−ンを読みとる操作と、それに見合った思惟様式の「古層」を記・紀神話を素材として構成する操作は循環をなす。それならば、外来思想がうける変容を「古層」のあらわれとして説明する叙述はまさに循環をなすことになる。そして論文『歴史意識の「古層」』全体の叙述はまさしくさまざまな循環の渦を構成している。

(中略)以上のような叙述は、くりかえされる「日本的」変容のパタ−ンを批判的に描くという「日本批判」となっているのだが、それは循環によって支えられた叙述である。超越的普遍的な規範性を希釈させてしまうとされる「古層」=「執拗低音」は、まさにそのような希釈・変容のパタ―ンに合わせて記・紀神話から抽出され、定式化されたものなのであるから。そのような循環は、「なる」「つぎ」「きほほひ」というそれぞれの範疇の構成に関して認められ、さらにそれらと論文後半部分とがまた大きな循環の渦を描いているのである。

(現代思想 特集 丸山真男 『丸山真男の日本批判』 152ページ)


すなわち、古事記からの基底範疇の抽出・定式化(a)と普遍的外来思想から規範性を奪い取って日本化させる執拗低音の作用の叙述(b)とは、論述として循環関係にあると言うのであり、そうした循環論法を持ち込んで構成された丸山真男の古層論は、思想史の方法として初めから誤謬であり錯誤であると言うのである。一般に、前提となる真理命題と結論となる真理命題とが相互に依存し合って堂々めぐりとなる論証を「循環論法」と呼ぶ。

読者の立場から二点ほど問題点を指摘したい。

まず第一点は、この古層論における循環性の問題認識が、すでに初発において丸山真男自身によって十分に自覚され、古層論全体を論ずる入口において前提的・限定的に予め予告手続されているという点である。つまり丸山真男自身が読者に対して、この古層論の道路を通行するときには「循環論法」という危険がありますから十分注意して通過して下さいね、という「通行注意」の立札を出しているということである。記紀神話から古層の基底範疇を抽出する作業は、すなわち後代における外来思想の日本的変容の思想史的認識を前提とした方法的行為となり、また同時に普遍思想の脱規範的日本化のパタ−ン認識は、上古からの歴史始原的な古層(=基底範疇の思想的作用)の存在を前提とする。論証すべきものを予め前提するという点においてこの方法は循環論法的である。このことをまず丸山真男自身が明確に述べている。

それどころか、ここでの「論証」は一種の循環論法になることを承知で論がすすめられていることを、あらかじめ断っておきたい。というのは、右にいう「古層」は、直接には開闢神話の叙述あるいはその用字法の発想から汲みとられているが、同時に、その後長く日本の歴史叙述なり、歴史的出来事へのアプロ−チの仕方なりの基底に、ひそかに、もしくは声高にひびきつづけてきた、執拗な持続低音(basso ostinato)を聴きわけ、そこから逆に上流へ、つまり古代へとその軌跡を辿ることによって導き出されたものだからである。

(『歴史意識の古層』 丸山真男集 第十巻 7ページ)


したがってこの循環論法論は米谷匡史の発見ではない。子安宣邦の発見でもない。丸山真男自身が予め方法的に自己限定している論点を、無理矢理に批判の俎上にのせ、これこそ丸山真男の方法論の致命的欠陥であると言い張って、まるで鬼の首でも獲ったかのように騒ぐのは、思想史家の態度として適正なものとは思われない。丸山真男において循環論法の自覚がなく、自己限定が付されてないのであれば、米谷や子安の批判も「発見」として十分に意味を持つのであろうが、丸山真男がその問題を予め自覚している以上、米谷匡史の古層論批判は単に丸山真男の方法的自覚の解説となり、方法的限定の検証の意味しか持ち得ようがないのである。

方法的手続が循環論法になることを承知した上で、敢えて丸山真男は古層論を問題提起しているのである。そして丸山真男は、この日本の思想の歴史始原的な基底範疇の抽出を方法的に可能ならしめる前提条件として、日本という国家社会、日本人という民族と人格、日本語という思考媒体の上代における歴史的成立の事実を挙げている。循環が単なる循環に終らない根拠として、論証形式における循環構造が思想史方法論の循環的陥穽にとどまることなく循環を最後の一点で留保する論拠として、日本と日本人と日本語の歴史的成立の始原性(=世界史的にも希有な古くからの一体性・等質性の形成)を指摘しているのである。

こういう仕方が有効かどうかは大方の批判に俟つほかないが、少なくもそれを可能にさせる基礎には、われわれの『くに』が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた集落と祭儀の形態などの点で、世界の『文明国』のなかで比較すればまったく例外的といえるほどの等質性を、遅くも後期古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持して来た、というあの重たい歴史的現実が横たわっている。

(『歴史意識の古層』 丸山真男集 第十巻 7ページ)


すなわち「日本・日本人・日本語」三者の歴史始原的成立と歴史始原的等質性が、古層論をサポ−トする論拠として提出されている。日本人に固有な思考パタ−ンが歴史的に存在するという事実が認められること、それを最古の文献史料に溯って見ることができるという方法的態度が成立すること、その二つが古層論の方法的前提として設定されている。循環論の無限ル−プは、この「日本・日本人・日本語」の個体性の歴史始原的成立という壁に突き当たることによって無限循環を一時留保させられ、また逆に、古層=執拗低音論の仮説を導入設定する以外にその壁を突き破る方法的手段がないという論理的構図に導かれるのである。

米谷匡史は次のように言っている。

現在の日本社会のあり方を批判しようとする丸山は、記・紀神話にまで遡及し、そこに見出された<日本的なもの>が現在も存続していることを批判的に描こうとしている。しかしそれは記・紀神話から漢意を排して「原日本的なもの」を構成し、それによって日本史を通じて伏流する<日本的なもの>を語ろうとした宣長の認識枠組に囚われたものであり、その<日本的なもの>を古代日本に投影して虚像の「古層」をつくりあげた結果なのである。「日本批判」をおこなおうとする丸山は、<日本的なもの>を構成する循環の織り物にみずから引きこまれていったのであった。

(現代思想 特集 丸山真男 『丸山真男の日本批判』 154ページ)


米谷匡史にとって、「古層」は、丸山真男が勝手に作り上げた「虚像」であると言う。大胆かつ挑戦的な批判であるが、残念ながらその態度には説得力が欠ける。米谷匡史の批判には、丸山真男が何故「くに」の等質性に言及し、それを古層論全体の循環ル−プを留保する根拠として提出したのかについての洞察と理解がない。もしも論者が、循環論批判の形式において古層論批判を完結させようとするのであれば、論者は何よりこの「くに」等質論に狙いを定め、その前提を崩さなければならない筈である。丸山真男が古層論を論じるにあたって、冒頭において循環論的限定性を宣言すると同時に、何故「くに」の等質性の歴史的事実を並記したのか、その意味が内在的に整理されなければならないし、それについて正面攻撃が与えられなければならない筈である。論駁は、論理構造全体の意味と整合性を問う形式でもよいし、あるいは「くに」の等質性の歴史認識に対する批判でもよいであろう。われわれが見てきたように、石田雄・姜尚中の『丸山真男と市民社会』においては、まさにこの「くに」等質論の歴史認識の正当性が問われることによって、古層論全体の理論的有効性が問われるという批判形式が採られていた。例の石田雄の「勇み足」論である。

循環論法としての論理構造が形式論理的にトレ−スされただけでは、古層論批判として体を成さない。それは何より古層論が思想史という社会科学における「方法」であるからである。米谷匡史の古層論批判の限界性は、思想史の方法という根本的問題への自覚の度合であるとも言えよう。すなわち、われわれ読者が考えなければならない第二の問題は、思想史における方法とは何か、社会科学における方法とは何かという根本的な問題である。

思想史家を自認する者で古層論を批判する者は、丸山真男に代わる新しい思想史方法論を定義しなければならない筈であり、自らの方法論に基づく日本思想史を描画構築しなければならない筈である。それなくして何の説得的な批判たり得ようか。独自の方法論と独自の思想史を自ら持ち得てこそ、それを真実であると言うことができ、丸山真男の理論を虚像であると言うことができるのである。自らは何の方法論も思想史も定義することなく、ただ漫然と小銭稼ぎに丸山真男批判の言説を並べる、流行としての「丸山真男批判」を軽々しく口にする、「脱近代」の主流的思想潮流の上に胡座をかいて無難に無造作に丸山真男批判をする。そういう無自覚な「批判業者」があまりにも多すぎる。

社会科学において方法を打ち立てるということは、歴史認識(現実認識)のProcedureとなり得る仮説をGrand Theoryとして打ち立てることである。そしてさらに、その仮説に対して自らコミットすることである。1)歴史的仮説、2)グランドセオリ−、3)自覚的コミット、簡単に言うなら、この三つが社会科学の方法の条件であると言えるだろう。この条件の一を欠く理論は社会科学の方法論として認められない。

グランドセオリ−たる歴史的仮説を打ち立ててそれにコミットする。そうした社会科学者と社会科学の方法の典型的なケ−スが、カ−ル・マルクスと史的唯物論であることはあらためて言うまでもない。マルクスの社会科学理論体系は全て仮説づくめである。土台上部構造論も、階級闘争論も、原始共産制論も、基軸となる歴史認識の原理論はすべて壮大な仮説であり、さらに言えば巨大な虚構である。虚構(=仮説)が提示されることによって、人間の歴史が社会科学的な意味ある歴史として整理され説明される。仮説が構築されない限り、事実一般は脈絡なく大気中の諸物質のように所与の宙空にふわふわと浮動するのみであり、因果的な合法則性の下に総括され得ない。意味を持ち得ない。

それは自然科学においても同様であろう。ガリレオの地動説もニュ−トンの万有引力の法則も、それは提唱された時点から現在に至るまで、宇宙を説明する一つの大仮説であり大虚構である。その宇宙原理論を以って自然界の様々な事象現象を説明すれば大凡の問題がうまく説明できる、その仮説を用いないよりも用いた方が説得的に論証可能であるという性格の定理であり提案である。その定理を知らない者、信じない者も多くいるし、知らなくても信じなくても人間が生きる上で特に大きな支障はない。

ウォ−ラスティンは近代的認識の集約的表現である社会科学の「脱構築」を言うために、繰り返し、最近の自然科学アカデミ−におけるニュ−トンの量子力学の不安定性を説くのであるが(藤原書店『社会科学をひらく』)、ケインズの一般理論と同様、ニュ−トンの量子力学もまた、提唱以来、何度も何度もその理論的限界を宣告され続けたところの、人類史上の大理論であった。繰り返して「限界」と「破綻」の言説を浴びせかけられる理論こそが、人類の遺産となり基準となる大理論なのであり、古典として読み続けられるものである。自然科学的認識における「近代」の「破綻」から社会科学的認識や社会常識の脱構築を説法する姿勢は、新興宗教の常套手段であり、麻原彰晃の最も得意とする信者獲得技法であったこと、あらためて言うまでもない。

ポストモダン主義の本質は、現代思想の装いを凝らした単なる現代呪術である。

マルクスの「史的唯物論」と「資本論経済学」とは、素人が見てもある種の循環関係にあることは間違いない。形式論理的に言えば、史的唯物論の完全無欠な論証と一般化を完結する前に、それを前提とした資本論経済学体系を叙述することは、その二つが循環論となることを導く。米谷匡史が言うところの「循環論の渦」は、まさに資本論体系における価値論と貨幣論、剰余価値論と利潤論、再生産論と恐慌論、労働論と階級論の全ての理論について一貫して浴びせられた非難であり、マルクス経済学批判の常套句であった。

ソ連邦を筆頭とするスラブ圏と中央アジアの社会主義国家体制が崩壊した歴史的事実をもって、これこそマルクスの理論的破綻の現実的反映であり、その運命は資本論体系の「循環の渦」において最初から予告されたものだったと哄笑することは易しい。けれども、一人の社会科学者であるマルクスが、二○世紀世界という巨大な時間と空間とエネルギ−を自己のビ−カ−としフラスコとして、その理論を思う存分に実験した歴史的事実は打ち消しようもない。マルクスは、彼の理論を自らの実践によって証明しようとする人間の精神を、二○世紀において無数に獲得したのである。マルクスは二○世紀のイエスとなり、その虚構は真理として圧倒的多数によって信仰された。

「すべてを疑え」と言ったのはマルクスである。しかしながら、疑うのは真理に到達するためであり、古い真理を新しい真理に置き換えるためであって、真理そのものを否定して価値相対主義の海を遊泳するためではない。

社会科学者は、歴史を説明するための基軸となる理論を開発し提唱しなければならない。それは、仮説としての虚構を歴史の中にダイナミックに打ち込んで行く営みである。虚構とは、この場合、司馬遼太郎が言うところの「絶対虚構」Fictionであり、カントが「教説」 と言うべきであるとした「教義」Dogmaのことであろう。それはつまるところ、どのような生き方が人間にとって最もよい生き方であるのか、どのような社会形成が人間にとって真に理想的な社会形成であるのかを堂々と人々の前に提示することである。社会科学の方法とはすなわち社会科学者にとっての社会的理念に他ならない。

米谷匡史が丸山真男の古層論批判の後で、わずかに読者に提示することができたものは、和辻哲郎を筆頭とする戦前の「近代の超克」論の再評価という、何とも貧しくみすぼらしい提案であった。米谷匡史が丸山真男の古層論を批判して言うところの「<日本的なもの>を再生産し、象徴制天皇制賛美に寄りそうようなある種の日本文化論と認識枠組を共有している」(156ページ)思想とは、誰がどう見ても丸山真男ではなく和辻哲郎の方であり、寄り添う相手を超国家主義から戦後民主主義にさっさと無節操に変えたのが、日本型近代超克論者の真の正体ではなかったのか。米谷匡史の結論と展望は、あまりにも実がなく、花がなく、種がない。不毛である。


4、古層における三層構造 − 古層論の視座空間

われわれは初めに、日本思想史研究のグランドセオリ−として、そして日本人の反省的な自己認識のカ−ネルとして丸山真男の古層論を位置づけた。そして今あらためて古層論全体を凝視したとき、いわゆる古層=執拗低音が意味するものが、全体として三つの層によって構成されていることを発見することになる。

古層を映し出すカメラのレンズを絞って古層の中核部に焦点を合わせたとき、そこに実体的に存在するのは、いわゆる日本人のエスノセントリズムの特有な形態、天皇制を永遠不滅の価値の根源として崇拝し帰依する信仰態度であり、それを自分自身の存在根拠として神聖視する自意識であり、天皇制を世界と歴史の中心に置いて全体を秩序づける非合理的な世界観である。古層における第一の層は、すなわち、古事記的思惟であり、国学的思惟であり、狂信的な超国家主義思想である。

古事記と本居宣長の国学と戦前の超国家主義。この三者は、一見したところ、その外形と風貌を異にし、思想的実体として一つのものとして了解することに違和感を覚えさせがちのものである。古代神話と近世国文学と狂信的軍国主義。もしも丸山真男という思想家が存在せず、丸山政治学なる学問が与えられることがなかったならば、戦後の日本人はこの三者を一つの思想的実体として捉えることはヨリ困難であったに違いない。しかしながら、丸山政治学は、この三者が実体として一つのイデオロギ−であることをわれわれに明確にさし示す。このことはわれわれ戦後日本人の常識である。文学的なもの、平和的で手弱女的な日本のシンボルが、ある日突然に政治的に狂暴化し、阿鼻叫喚の地獄へ向かって破滅的に暴走するものであることを、われわれはよく知っている。


いわゆる神道思想という表現で括られるような思想的実体を古層の第一層とするならば、そうした可視的な実体部分の周縁に、気体状の形態を帯びて取り巻く第二層を確認することができる。すなわち「日本人の思考パタ−ン」として表象されるところの特徴的な日本の思想、「無責任の体系」として規定された日本人特有のものの見方考え方である。われわれ自身の身体内部に染み付いている認識の枠組、日本人が先天的に引き摺っている問題の処理の仕方、日本語という言語媒体の性格が自然生的あるいは半強制的にわれわれの中にプログラムしてゆく精神構造。それが古層における第二層として見なければならないものである。

基底範疇「つぎつぎになりゆくいきほひ」の生態は、この第二層において日本人の日常社会を特殊な「日本社会」として濃厚に特徴づけてゆく。われわれ日本人の日常は、多数において、この基底範疇が本性のままに蠢き自己貫徹を遂げて行く様々なバリエ−ションの世界である。政治世界においても、企業社会においても、テレビ世界においても、アカデミ−においてもそうである。今の勢いを得たものであれば、何でもすべて尊重される。過去の事実と以前の過失には、悉く目隠と封印が施される。水に流して済まされる。勢いを一度失えば、見るも無残に打ち棄てられる。瞬間瞬間の「いきほひ」だけが、テレビの画面を占領し、新聞紙面を占領し、国会議場を支配し、企業の意思決定を支配する。「いきほひ」だけに動機づけられ、「なりゆき」だけに関心と注目が集中する。

将来の理念を言うのが只管苦手である。過去の反省を言おうとすると脅迫される。バブル経済の後始末も、行政改革も、その行く手を阻んでいる根幹は、「既得権益者の利害」という政治経済的実体以上に、改革を高唱しつつも改革後の未来を構想できず、改革されるべき諸問題が蓄積された過去を対象化できない、日本人自身の内なる執拗低音の思考作用そのものなのではあるまいか。丸山真男の提出した「日本人の自己認識」は、真相として課題として要請として、すなわち社会科学として、いつまで経っても、いつまで経っても、いつまで経っても古くならない。

若いとき『超国家主義の論理と心理』や『日本の思想』を読み、「これがあれだったのか」という思想的既視感に興奮しながら思ったのは、「自分が生きている間には必ず日本人も変わる時が来るだろう、《無責任の体系》から離脱して新しく変容する姿勢を見せるだろう」という希望的楽観であった。それからの二○年間は、希望的楽観が絶望的悲観に変化するグラデ−ションの過程である。グラデ−ションのカラ−パレットのパラメ−タが、どこまで「#000000」に接近したのか、もはや確かめようという気力すらないけれども、日本人が丸山真男の政治学を精読しなければならないこと、政治学者が繰り返しそれを講義し続けなければならないことだけは、昔より今の方がよく理解できる。


最後に、古層の第二層の外側に、さらに密度を薄くした気体形状の第三層が存在する。古層=執拗低音の第三フェ−ズ、それはただ日本人のみの自己認識にとどまらず、現代世界全体の思想状況を照射する自己批判の認識として考えなければならないものである。原理的なるものからの逃避、理念的なるものの自己崩壊、精神的緊張関係の喪失、流動する現実への自己同一化、漂流する状況に対する無限肯定、世俗的価値観への盲目的追従。丸山真男が一九七二年に提出した議論は、日本のみならず世界全体の思想状況を問う問題提起であり、その後に一世風靡する「現代思想」=「脱近代知」の氾濫に対する洞察であり、ポストモダン主義の厄災に対する予言的警鐘に他ならなかった。

現に、「いま」の感覚は、現在ではあらゆる理念への錨づけからとき放たれて、うつろいゆく一瞬の享受としてだけ、宣長のいう「中今」への賛歌がひびき続けているかに見える。すべてが歴史主義化された世界認識 − ますます短縮する「世代」観はその一つの現れにすぎない − は、かえって非歴史的な、現在の、そのつどの絶対化をよびおこさずにはいないだろう。しかも眼を「西欧的」世界に転ずると、「神は死んだ」とニ−チェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。

(『歴史意識の古層』 丸山真男集 第十巻64ページ)


単位時間あたりに処理しなければならない情報が増え、単位時間あたりにカバ−しなければならない要件や項目や領域が増え、それを効率化するための機構と装置が新たな煩雑さを人々の前に積み上げて、問題の本質的な把握と解決へ向かわせる精神を疲弊させ、緊張感を奪い取ってゆく。支配的思想の移ろいゆく流れのなかに身を浸し、身を漂わせながら、表面的な情報処理能力のスピ−ドとパフォ−マンスだけを「専門知識」の証明として追認し、依拠せざるを得ない現代人。それはアカデミ−でも実社会でも同じであり、また日本でも、米国でも、欧州でも、事情は全く同じである。

「古層」論文最後の一節に記された丸山真男の予言の中に、世紀末の日本と世界の知性は、深く鈍く虚ろに沈み込んでいる。

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1997.11.22、山一証券、自主廃業の報道を聴きながら、