丸山真男をどう読むべきか

− 若き世代に寄す −

皆様こんにちは。『市民のための丸山真男ホ−ムペ−ジ』の N.Tanaka でございます。堀田善衞の死の一報を聞いて以来、すっかり落ち込んでいたのですが、東大出版の新刊『丸山真男講義録(四)』と八重洲ブックセンタ−の展示会『丸山真男の世界』のお陰で、どうにか少し元気を取り戻すことができました。

最近、私のホ−ムペ−ジをご覧になられている若い方からお手紙を頂戴したり、直接にお話をお聞きする機会が多くなって参りました。一年ほど前になりますが、私との「論争」をお引き受けになられた一橋大学の加藤哲郎先生から、「貴HPの定連層の年齢構成をぜひ知りたい」というご質問をいただいたことがあります。多いのはやはり二○代の男の学生さんです。インタ−ネットの環境が生活の身近にあって、自由に閲覧する時間を多く持っているということでしょうか。私のホ−ムペ−ジは、どちらかと言いますと、社会で働いている現役の市民の皆様を対象にしているつもりだったのですが、どうも実際には、働いている市民よりも学生の読者の方が多いのかも知れません。そこで今日は、たいへん僭越ではあるのですが、若い学生の皆様に向けて「丸山真男をどう読むべきか」についてお話をしてみたいと思います。

加藤先生からいただいたお手紙のご指摘の中で、覚えているのですが、加藤先生や私たちがマルクスや山田盛太郎を読んだ時よりも、今の学生が丸山真男を読むことの方が、内発的動機づけが乏しくて「手強い」理論的存在だとおっしゃっておられました。二年前に加藤先生が大学二年生を対象にしておこなった『日本の思想』の音読演習は、意に反してあまりよい成果を上げられなかった、というようなことが書かれていたと思います。確かにそのとおりなのかも知れませんが、一方で今や日本全国どこの本屋へ行っても、店頭に丸山真男の新刊書がうず高く積み上げられていますよね。これでもかこれでもかと、大手の出版社から「座談集」やら「講義録」やらがどさどさと運ばれてきて、書店の売場最前列に平積みにされるわけです。売れないものは本屋は絶対に置きませんからね。流行に敏感な若い学生さんが、その様子を目の当たりにして、丸山真男に鈍感でいられるわけがないと私なんかは思うんですけれど、いかがでしょうか。若い人にとって流行とはまさに神そのものですからね。

便乗商法も目につくでしょう。「講義録」が出た途端にディスク−ルの思想史が、待ってましたとばかり『江戸思想史講義』を売りまくるとかですね。そういう特別なのは別にしても、例えば最近の岩波文庫なんかを見てもですね、ウェ−バ−の『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』とか、ノ−マンの『クリオの顔』や『日本における近代国家の成立』とか、それからベラ−の『徳川時代の宗教』が出て来たり、ロマンロランの『愛と死との戯れ』なんかが復刊されたりしていますでしょう。どう考えても単なる偶然だとは思えませんよね。明らかに丸山真男ブ−ムの一環です。「死せる丸山真男、生ける岩波文庫を走らす」じゃないかと、私なんかは一人で書店でほくそ笑んでいるのですが、ひょっとしたら例によって、出版社の「底意」を勝手に誤解しているだけなのかも知れません。(笑)

ただそれにしても、私たちが丸山真男を読んだ頃と比べれば、今の若い皆さんにとっての丸山真男の存在は私たちの頃と同じではないように思います。私たちの頃は、丸山真男とは何か、自分にとってどのような存在かという問題は明解でありました。くっきりとした丸山真男像であったと思います。像の周囲の空気が澄んでいたと言えるのかも知れません。あまり悩むことはありませんでした。今の若い皆さんから見れば、丸山真男の思想像は必ずしも鮮明とは言えませんね。戦後民主主義の思想的指導者だったらしいということは何となく分かるのですが、その思想的意味の評価のところで判断を悩まされる情報にたくさん接するわけです。こういう怪しからん知識人がいたから戦後日本は駄目になってしまったんだという見方も非常に強いですよね。こういう左翼の悪玉に騙されていたから、日本は「普通の国」になり損ねたんだという戦後民主主義否定論です。西部邁や佐伯啓思の持論です。そしてもう一つが、姜尚中や酒井直樹や中野敏夫や大澤真幸やその他大勢のポストモダン主義者が言うところの丸山国民主義者論です。戦後総動員体制を主導した思想的首魁だったとか、戦後の国民国家統合を推進したナショナリズムの理論的リ−ダ−だったとか、そういうネガティブな丸山真男像です。 戦後民主主義とは何なのかという問題も、現在の若い人が考える問題としては、決して易しい問題ではないのでしょう。そこにはソ連共産主義体制の崩壊という巨大な現代史もあるわけですね。丸山真男の思想像を一義的に捉えにくい時代であることは間違いないと思います。


1、ポストモダン主義について


しかしそれにしても、最近の大学はポストモダンが全盛ですね。ジェンダ−、マイノリティ、カルチュラルスタディ−ズ、アニメ評論、戦後啓蒙批判、伝統的社会科学批判、脱構築、そういう話ばっかりですね。脱理念、脱規範と言うから、これが脱政治、脱権力なのかと言うと、決してそうじゃないんですね。非常に政治的であり、権力的な動きがありますでしょう。気にいらない奴がいたら徒党を組んで潰しにかかって来るでしょう。金も欲しい、権力も欲しい、快楽も欲しい、そういうポストモダン主義なんですよね。非常に質が悪いです。大学はポストモダン主義の浴槽ですよね。その浴槽のなかに、皆さんは首までどっぷり漬かって毎日生活しているわけです。ポストモダン主義の人間が「多数」であり、アカデミ−社会空間の「常識」を握り、そして「権力」を握っているわけです。大学がポストモダン主義の「拠点」になっているわけですね。

私、思うんですが、ちょうど二○年前とか三○年前の大学が今と同じでして、その頃はマルクス主義者が大学の社会空間を強力に支配していたわけです。牛耳っていたと言ってもいいと思いますね。マルクス主義のグル−プのなかにも、労農派系の社会主義協会もいれば、講座派系の共産党もいれば、どれでもないのもいて、それぞれ仲が悪くて毎日喧嘩しているわけですが、それでもマルクス主義はマルクス主義で、反マルクス主義的・非マルクス主義的な政治態度や学問方法論の人間は容赦しないわけです。そういう「近代主義者」を見つけたら、強烈に徹底的に攻撃を仕掛けるわけです。取り囲んで締め上げるという感じですね。「やっぱり丸山真男の方法が最高だ」なんて声を上げたりしたらですね、それはもう大変なことになりました。「お前には階級的自覚がないのか」とかですね、「小市民根性への堕落」とかですね。一学生の身分の人間に対してですら、そういう貼札を貼って威嚇したり執拗に人格的攻撃を浴びせかけて来たのです。凄いでしょう。まるで一歩キャンパスに足を踏み入れた途端に、そこはソ連かという感じの思想的環境だったのです。

ポストモダン主義はマルクス主義のような一枚岩的な政治的党派性ではありませんから、ポストモダン主義に反対の意見表明をしても取り囲まれて吊し上げられるなんていうことはないでしょう。でもこの間の「平成全共闘事件」なんかを見てもですね、似たような集団主義と言うか、群れ集まって一人を狙い撃ちにするというヤクザ的な雰囲気は、実に相似形的だと思うのですよ。群れてつるんで金と権力を手に入れようとするのが今のポストモダン主義ですね。昔のアカデミ−のマルクス主義者の多くがそういう輩だったと思います。権力を獲った奴というのは、小天皇・小スタ−リンになってですね、信じられないくらい威張っていました。子分を侍らせて、毎日毎日、奴隷のように使役したり嗜虐したりしていました。私が目撃した当時のマルクス主義者の学問的師弟関係というのは、単なる親分子分の領域を超えて、ほとんどサディストとマゾヒストの関係同然でありました。これが神聖な学問に仕える人間のすることかと何度も憤って思ったものです。精神がぐちゃぐちゃに歪みきっていて実に醜悪でした。

それで、今はポストモダン主義全盛の時代になりました。現在の皆さんは、ジェンダ−とカルチュラルスタディ−ズと脱構築の常識にどっぷり浸って、「優」を揃えておられるわけです。しかし立派な成績証明書を持って卒業されてゆく先の現場社会は、そういうポストモダン的な常識が全く皆無の世界です。これははっきり断言できますが、そういう常識は存在していないし、全然通用しません。企業組織のなかにカルチュラルスタディ−ズの常識はないのです。社会の常識と大学の常識が極端に違うということは、大学のなかがマルクス主義に支配されていた昔もそうだったと思います。いつもギャップがあるのですね。だから皆さんは、われわれの時と同じように、社会に出た途端に、頭の中のハ−ドディスクを物理フォ−マットして、実社会で通用するグロ−バル資本主義のOSを再インスト−ルしなければならないわけです。ご面倒なことだと思います。

立花隆さんが、昨年の秋頃からですかね、大学生の知的レベルが極端に低くなってしまったのは、大学が受験生に媚びて、受験科目の数を減らしてしまったからに違いないという指摘をしておられました。そういうことも確かにあるのかも知れません。私は、どうも大学の先生方のレベルが落ちてしまって、学生を自分のレベルに合わせているだけではないかと思うのですが、皆さんのお考えはいかがでしょう。大学生なんて毎年毎年入れ替わって新しいのが次々に入って来るわけですからね。教える方が手を抜けばどんどん質が落ちて行くのは当然のことです。それを中等教育のせいにしたり、企業社会のせいにするのは責任逃れでしかありません。

私は、大学の知的レベルの低下とポストモダン主義の蔓延とは無関係ではないと思っているんですね。イ−グルトンも似たようなことを言っていますが、この二つはおおいに関係があると思っています。ポストモダン主義というのは要するに学問の遊戯化ですね。学問の趣味化です。学問のエピキュリアニズム化です。何でもいいという話です。学問が仕える主人が社会的使命ではなくなって個人的趣味になったということです。個々人の研究者が好きなことを自由にやって、感性的欲望のおもむくままに自由に発散表出すればそれでいいという考え方です。評価の基準はないのです。差異のゲ−ムです。消費的言説商品の間断なき生産と供給です。強いて言えば、差異が目立てば目立つほどいいという尺度でしょうか。活動個体として差異的情報を発信し続けていればいいのです。目標もなく課題もなくレベルとかスキルという概念もないのです。蓄積とか修練とか習熟とか完成とかはないんですね。個体の欲望に蓄積や完成がないのと同じです。市場があって瞬間的に差異の情報発信をする。時間が経過すると差異が減価償却されるので、また新しい差異をこさえて情報発信をする。そのためのネタをあれこれ探して掻き集める。市場の変化に合わせて売れる差異を投入する。そういうことです。

私は、そういう市場は本当は無いんだと思っているんです。擬似的市場だと思うんですね。再生産論的に見れば、経済大国になって、文教予算が増えて、大学の数が増えて、そこに寄食する階層がぶ厚くなったために、その階層に関連する産業構造が贅肉的に膨らんだだけではないかと思うのです。つまりこれは国民の税金を原資として循環している市場です。その差異の商品が転がってゆく潤滑油としての金は、研究費であれ、給料であれ、元は全部税金です。だから、今みたいに経済環境が厳しくなって来たら、この擬似的市場の循環は当然縮小して行くのです。私大は深刻な経営難に直面するでしょうし、出版社も一層苦しくなることでしょう。税金で循環する擬似的市場ではなく、市民社会の内部に本来的な知識市場を興さなくてはいけないのというのが、私の本意なんですけれど、なかなか理解してもらえないようで残念です。

もう一つ。私は、ポストモダン主義というのは、一つの擬似的な「全体社会的達成感」が社会心理的な基礎になっているんじゃないかと思うんです。要するに近代社会というものが目指した目標なり課題なりはすべて達成してしまったんだ、もうそれは俺達の目標や課題ではないんだという感覚(錯覚)です。俺達は近代の人間が悩んだ問題についてはもう悩まなくていいんだ、達成済みだから問題にしなくていいんだ、そういう悩み事はもう古いんだ、古臭い前時代の遺物なんだという社会的達成感です。

ポストモダン主義のム−ブメントは、皆さんもご承知のとおり、社会主義の退潮とバブル経済の到来と一緒にやって来ましたよね。バブル経済華やかなりし頃によく言われたのは、もはや近代経済学のマクロモデルは不必要な経済段階に到達したというセオリ−です。日本経済は永遠の無限繁栄軌道に乗ってしまったから、景気変動論も産業連関論も国民経済計算も全部要らんというわけです。マクロ経済学の諸範疇も諸範式も全部不要だと言うんですね。そういう学問は用済みだから、近代経済学なんてやめて経済社会学者になって社会評論でもやればいいということになったんです。だからいま、日本経済がいちばん深刻な危機のときにマクロ分析をできる学者が一人も出て来ないんです。宮崎義一さんみたいな学者が全然出て来ないでしょう。おかしいですよね。マンガの話ならできるけれどマクロ経済は全然分からない学者ばかりなんです。真面目に勉強してないから分からないんです。若い学者は全部そうです。役に立たない経済社会学者ばっかりでしょう。口先だけの社会風俗評論家ばかりです。

経済がバブル(景気変動のない無限の繁栄循環)になり、そして社会主義(資本主義を否定する理念と運動)がバタッと倒れるのを見たものだから、ああもう社会科学なんて真面目にやる必要ないんだな、社会科学が社会科学足り得た時代の条件は崩れたんだな、という達観 − 錯覚ですけれど − に陥ってしまったのですね。後はもう一人一人が差異のゲ−ムで踊らにゃ損々ということになったんです。「古典の概念も揺らいでいるのだ」なんて、まさにそういう類の言説でしょう。達成の錯覚がデカダンスを呼んだのです。ポストモダン主義というのは、まさに社会科学の精神のデカダンスです。精神的退廃ですね。退廃は心地よいものでもあります。若い連中のポストモダン主義は本源的退廃です。最初から学問を知りません。熟年の学者たちのポストモダン主義は転向的退廃です。そして彼らの転向的退廃の奥底にあるのは自己敗北の傷痕です。学問がデカダンスになればアカデミ−の知的水準が凋落するのは当然です。立花さんにはぜひこの真実をご理解いただきたいものだと思いますね。

2、音読せよ、直接に対話せよ、媒介なしに感想を持て

インタ−ネットで丸山真男研究をおやりになられる方法として、丸山真男の死後に書かれたものを書誌学的に集めてデ−タベ−ス化するというスタイルがあるようです。松山大学の藤本昌司さんが最初にお始めになられて、岡本真さんも新しく始められています。非常にご好評のご様子です。手間のかかった素晴らしい業績でありまして、便利なので私もちょくちょく覗かせていただいたりしております。インタ−ネットのなかの丸山真男も華やかになって来ました。現在の日本の思想界は、好むと好まざるとに拘らず丸山真男を中心に回っているということは間違いありませんので、こうした情報提供の活動が貴重で重要であることは言うまでもありません。

ただ、私が年寄の小言として若い皆さんに申し上げたいのは、できるならば丸山真男について最近書かれたものを精力的に読むのではなく、丸山真男が書いたものから先に直に読んで、その上でインタ−ネット上の丸山真男研究を展開して行っていただきたいということです。丸山真男について死後に書かれたものは星の数ほどありますが、玉石あります。玉と言えるのはそのうちの5%ほどでしかありません。石ころばかりです。現在のアカデミ−のなかでネ−ムバリュ−のある人々とか、雑誌に載せて名前で売れる人のところに雑誌社が原稿依頼を持ってゆくわけです。当の雑誌編集者にしても担当者にしても、原稿を依頼する先の偉い先生の名前はよく知っているのですが、丸山真男についてはほとんど読んでなくて知らないか、昔少し読み齧っただけで忘れてしまった人ばかりなんですね。編集者は、偉い先生が書いた「丸山評価」に対して評価することができないのです。『大航海』も『情況』もそうです。

丸山真男が何を言っているのかを知らないまま、丸山真男について書かれたものを読むのは、無益であるばかりか、むしろ害の方が大きいのではないでしょうか。まず直接に丸山真男に当たるべきです。参考書は必要ありません。自分が高等学校教育までの課程で培ってきた国語の能力と社会科の知識で、白紙の状態で素直に読んでみるべきです。最初に読むのは、岩波新書の『日本の思想』か、未来社の『現代政治の思想と行動』がよいでしょう。手に入れ易いのは『日本の思想』ですね。その両方に収められている論文を、最初から一本づつお読みになることをお勧めします。最初にビ−トルズのCDを聴いたときのようにですね、例えば『アビ−ロ−ド』を聴くような気分で、何が出て来るのかなと期待しながらお読みになるのがよいと思います。勿論これはあくまで最初に一人で読むときの話であって、読書会での読み方を言っているのではありませんが。

ビ−トルズの曲でも、最初から好きになれないものも中にはあるでしょう。それと同じで、丸山真男の論文の中にも、きっと好き嫌いが出て来る筈です。『日本の思想』と『現代政治の思想と行動』を全部読んで(結構大変かも知れません)、それで全く自分と合わない、好きになれないと思ったならば、それはそれでいいと思うのです。無理に好きになる必要はないし、無理に論理を追跡して消化吸収する必要はないと思います。「面白くなかった」でいいのです。そこで一度置いて離せばいいと思うのです。「結局、丸山ってこうなんだね」などと下手な知ったかぶりを言うのは感心しません。何か自分の知的ストックの一部になったように錯覚するのも危険です。

それから、市中に出回っている「参考書」を読むなと申し上げたのは、流行を神と崇める若い人たちにとって、大澤真幸がこう言ったとか、姜尚中がああ言ったというのは、神の啓示のように聞こえるのではないかと思うのですね。だから、丸山真男の文章を読みながら、そこに大澤真幸や姜尚中の「啓示」を読み取ろうとするのではないかと気になったからです。恥ずかしい話ですが、私も子供の頃、そういう拙い経験をいっぱいしてしまった些末な人間でした。ピンクフロイドを聴きながら、無理にそれを「理解」しなければならないと焦って、渋谷陽一などの売文の一節を必死に曲のなかに捜し求めるという無益な過ちを犯していました。本当に恥ずかしい話です。姜尚中も大澤真幸も、お二人とも現代を代表する優秀で立派な知性でありますが、丸山真男の政治思想史の理解については不十分であり、或いは意図的に誤った読み方をしています。

無理に理解する必要はないのです。或いは他の人が語っている「丸山理解」を、そこでトレ−スして納得する必要はないのです。ビ−トルズの曲を聴くのと同じように、軽い気持ちで読み通してみることです。ビ−トルズの曲の一つ一つに対してあなた自身の感じ方があるように、丸山真男の論文に対して自分自身の感じ方ができればそれでいいのです。無論漫画を読むようなわけには行きません。あなたの現代国語の読解能力と社会科の学習知識が問われるのは当然です。知らない単語や著書や著者の名前が多く出て来ることもあるでしょう。しかし私の経験から言えば、それは苦痛ではありません。逆ですね。自分の国語能力と社会科の知識意欲をさらに高めてくれる素材として丸山真男があります。もう一つ言えば、少し注意して読めば、どこかで一度聞いたことのある言葉やフレ−ズに多く出合うことに気づく筈です。

繰り返しますが、古典というものは、マルクスであれウェ−バ−であれ、自分で読んで自分の頭で考えなければなりません。誰かが言っている丸山真男論を読むだけでは丸山真男を読んだことにはならないのです。私は、若い人がいま丸山真男を読んでどう感じるか、どう思うのかが知りたいのですね。これだけ丸山真男の書物が書店に氾濫していながら、そういう類の情報はどこにもないですから。私にはどうも不思議なんですね。ひょっとしたら今の学生たちは本当に大脳皮質が退化していて、丸山真男を読んでも全く何も感じない知的不感症になっていて、結局このブ−ムの成り行きだけを雑誌上の「丸山評論」を手がかりにして追いかけているんじゃないだろうか、などと疑ってみたりしているんです。

加藤先生の音読演習の半分挫折の件ですが、私は音読こそ若い人が古典をグル−プで勉強する場合の唯一標準の方式であると考えています。私自身は社会科学の古典についてそういう方法で勉強しました。丸山真男の『現代政治の思想と行動』もそうですし、マルクスの『資本論』もそうでした。全部音読です。参加者平均五名、二時間の読書会で、一回にわずか一ペ−ジしか進めないというケ−スも屡々ありました。一字一句意味を全員で確認しながら前へ読み進みましたので、当然ながらスピ−ドは遅くなります。最初は少し抵抗がありました。こんな読み方でいいのだろうかと思ったことがありました。しかしその勉強方法は今まで経験したことのないものでした。音読で感じさせられたのは、一つ一つの言葉や事象について自分がいかに不十分な理解のまま本を読んでいたのかということであり、我流で勝手に丸呑みしようとしていたかということでした。大学三年生になると、下級生の音読学習会にチュ−タ−として入る立場になりましたが、その時ほど古典の音読学習の有意味さを認識させられたことはありませんでした。

丸山真男自身が残した『「文明論之概略」を読む』が、まさに音読学習会の模範的なア−カイブであるわけですが、音読学習会が成功する条件は二つあると思いますね。一つは学習会を主宰するリ−ダ−がその素材について完璧に内容を理解していること、もう一つはリ−ダ−が参加者を素材の中に引き込んで行く意志と能力を持っているということです。もっと言えば、主宰者が学習素材である著者と著書を愛し抜いているかどうかということが決定的だと思われます。丸山真男と福沢諭吉の関係があって、初めてあの『「文明論之概略」を読む』読書会が成立するということです。そういう惚れた相手でなければ、演習で音読をやっても効果が上がらないのではないかと思うのです。

大学四年間というのは考えてみれば短い時間です。ポ−ッと遊んでいればすぐ卒業になってしまいます。短い時間で読める本の量というのは限られたものです。身を入れて真剣に勝負できる勉強相手というのは限られています。勉強以外にやりたいことが山ほどあります。私は若い人には読書は量ではなくて質だということを理解していただきたいと思います。若いときにその訓練を積むことができなければ、結局最後まで安物の「現代思想マニュアル」にお世話になり続けなければなりません。特に、独学を余儀なくされがちな都会の大きな大学の学生の皆様などにはそのことを申し上げておきたいと思います。

極端に言えば、たった一冊だっていいんです。ウェ−バ−の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ですとか、マルクスの『ドイツ・イデオロギ−』ですとか、ルソ−の『人間不平等起源論』ですとか、丸山真男の『日本の思想』であるなら、それが読書した者の社会科学的知性の基礎となり、血となり肉となるのであれば、私は一冊でもいいと思います。あれもこれも、フ−コ−もハ−バ−マスもウォ−ラスティンもア−レントもと欲張る必要はないのです。皆さんにとっていま現在ある古典が古典なのであって、これから古典になるものが古典なのではありません。これから何が古典になるのか予測する能力を持たない学生の諸君は、いま現在ある古典を古典として手に取ればよいのです。

はじめにポストモダンの差異のゲ−ムの話をしましたが、私たちの頃も若干似たような状況はありましたが、たとえば講談社の現代思想シリ−ズなどを見てもですね、或いはインタ−ネットの読書ノ−トなどを眺めながら一層強く思うのですが、本当に思想というものが若い女の子の服飾品と同じになっていて、つまり完全に服飾趣味の世界になっているんですね。女の子が街へ出かける前に、ぎっしり詰まったワ−ドロ−ブの中からワンピ−スやらスカ−トやらをいっぱい引っ張り出して来て、ドレッサ−の前でとっかえひっかえして、アクセサリはどうしようバッグはどれにしようとあれこれ悩んだりするでしょう。あれと同じなんですね。いっぱい持っていればいいんです。服飾商品をいっぱい持っていて、お出かけする場所や相手に合わせて彼女らしいコ−ディネ−ションを表現できればそれでいいんですね。

これもある、あれもある、こんなのもある、これはどうだ、と得意気にちらちら見せるわけです。ちらちら見せるのが目的なんですね。持っているアイテムのバリュ−をちらちら見せて差異のゲ−ムを楽しむわけです。趣味のファッションですから舶来の新しい流行のものがいちばんいいんですね。ニュ−ヨ−ク・パリ・ミラノコレクションの最新モ−ドの直輸入が最もバリュ−が高いわけですよ。インタ−ネットの読書ノ−トを見るとですね、本当にちらちらしているでしょう。カタログ情報的に著者名と著書名がざぁ−っと羅列されてそれで文章全体がお終いですよね。五行ほどの文章のなかに著書名と著者名が十セットほど埋め込まれていて、その間を繋ぐ言葉はほとんど助詞と助動詞だけというような文章によく出くわしますよね。文章というより一覧表です。デ−タ件数は多いし、検索の精度もいいのですが、一件毎のデ−タの中身がないのです。レコ−ド長が短か過ぎて大事な中身の情報が落とされてしまっているのです。

学問が差異のゲ−ムになってしまうと、職業としての学問も女の子のファッション趣味と同じものになるわけです。彼の職業的達成は、いかに同業者より多くワ−ドロ−ブに服飾品を詰め込むかということと、いかに同業者より素早くパリコレクションを輸入するかということと、いかに多彩なコ−ディネ−ションでそれを街で歩いて見せる機会を多く持つかということに尽きることになるのです。あともう一つ、街を歩きながら新しい流行を把握して次のネタとして仕込むことも大事です。新ネタを仕込んだ瞬間に、即旧ネタを投げ捨てて、「あれはもう古い」とか「それはもう終わった」と真っ先に言うのです。司馬遼太郎が流行ると見れば、何はさておき司馬遼太郎をネタにする。丸山真男が流行り始めれば、読んでもいないけれど丸山真男をちらちら着て見せる。それがお仕事なんですね。

急がば回れという言葉があります。もしも皆さんがこの言葉に普遍性を感じ取り、学問的態度の問題にも適用するのであれば、やはり瞬間的な差異のゲ−ムのパフォ−マンス芸の路線ではなくて、自己の社会科学的知性の基礎固めを選択する必要があると思います。古典を古典として一度は信じる必要があります。固いものを歯で噛む必要があります。基礎力を涵養する必要があります。私たちは固いものでも必要と言われれば噛みましたが、皆さんはどうでしょう。噛まずに育っても生きて行くことはできるのです。無理に固いものを噛む必要はないという声も多いのです。これは皆さんにとって選択の問題です。選択することによってこれからの方向性が変わって来ます。読書の秋になりました。丸山真男を読むにはよい季節です。自分自身の知性の基礎を作るつもりで丸山真男と対話していただきたいと思います。


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