姜尚中の歴史認識と丸山真男批判の陥穽

− 『丸山真男と市民社会』を読んで (2) −


1、退場してゆく知識人は誰か?

(1)どのような時代が終焉したのか

姜尚中の丸山真男批判には必ず一つの決まり文句のパタ−ンがある。

マックス・ウェ−バ−の伝記の扉を飾る詩人リルケの言葉にならって言えば、丸山こそ、戦後という「ひとつの時代がその終焉に当たってもう一度自分の価値を総括しようとしてみるときいつもあらわれてくるような」人間である。いま丸山について語ることに意味があるとすれば、それは他ならぬ戦後(日本)の終焉にわれわれが立ち合っているからであり、このひとつの時代の黄昏のなかでその意味を振り返ってみなければならない時にさしかかっているからであろう。

(現代思想 『丸山真男と「体系化の神話」の終焉』 225ページ 1994 )

「これは一つの時代がその終焉に当たってもう一度自分の価値を総括してみるときにいつもあらわれて来る人物だった。」マックス・ウェ−バ−の伝記(マリアンネ・ウェ−バ−『マックス・ウェ−バ−』)の扉を飾る詩人リルケの言葉である。この美しい賛辞にならって言えば、丸山真男と大塚久雄こそ、戦後という一つの時代の終わりにその価値を総括しようとするときいつも立ちあらわれてくる知的巨人であることは間違いない。

(神奈川大学評論 『丸山真男と大塚久雄』 41ページ 1997)

その前に、丸山先生について語るシンポジウムにどうしてこんなにたくさんの人がくるのかということなんですが、これはおそらく戦後というものに、いい意味でも悪い意味でも皆さんがこだわっているからだと思うんですね。私自身もそうですが。「ひとつの時代が終わろうとしているときにその価値が何であるかを確かめようとする時、いつも立ち現れてくる人間」、これはウェ−バ−の伝記を飾るリルケの詩のなかにある言葉です。戦後五○年の意味を考える時に、丸山先生が亡くなられた。偶然にしてはあまりによくできたドラマです。

(丸山真男と市民社会 『いま丸山真男を語る意味』65-66 ページ 1997)


何度も何度も、繰り返し繰り返し、本当に執拗に同じことを言っている。

姜尚中が言う「一つの時代が終ろうとするとき」というのは、一体どういう時代が終るときのことを指すのであろうか。姜尚中は「戦後という時代の終わり」だと言っている。 姜尚中の時代認識では、この二十世紀も終りを迎えた今頃になってようやく「戦後」が終るのだろうか。日本国政府発表の経済白書では四○年前の一九五○年代半ばに「もはや戦後ではない」と宣言されている。それは日本人の今日の常識である。姜尚中がその「戦後」という時代認識を経済白書とは別の意味で使っているのであれば、それをどのような意味で使っているのかをぜひ明確に教えてもらわなければならない。

そして、あまり素っ気無くしてもいけないので、なるべく姜尚中に内在して彼の「戦後」の意味を了解しようとするならば、その「戦後」は、たとえば「戦後民主主義の時代」という言い方に置き換えられる実体・対象であるのかも知れない。戦後民主主義の時代の終り、戦後民主主義の時代の黄昏、戦後民主主義において支配的であった価値観の崩壊の時代の到来、それが姜尚中が言わんとする「戦後の終り」「一つの時代の終り」の正しい解釈の仕方なのかも知れない。

仮にそうであるとして、果たしてその姜尚中の時代認識は正確なものと言えるのであろうか。その時代認識は、われわれ市民の皮膚感覚の時代認識と共通のものと言えるのであろうか。答えはやはりノ−であろう。われわれ市民の時代認識において、また日々の日常感覚において、戦後民主主義の価値や意義は、意識するしないにかかわらず、やはり強力に生きているからである。今年八月末の「家永教科書裁判」の報道においても明らかなとおり、それは日本人の市民生活にとってかけがえのない貴重な守り神としての存在感を日々顕かにしつつある。

戦後民主主義の死を宣告する者は、政治的立場の左右を問わず広く無数に存在する。しかし、死を宣告されても、宣告されても、戦後民主主義は日本人の中でしぶとく必死で生き抜こうとするのであり、その生死が日本の市民のまさに物理的身体的な生死に直接関わる問題であるかぎり、そう簡単に死んだり、過去の歴史になって消え去るわけにはいかないのである。戦後民主主義の時代が終るときというのは、明確に日本国憲法が廃絶されて「普通の国」憲法が施行されるときのことであろう。それこそが真の意味での「一つの時代の終り」の歴史的瞬間であるに違いない。そのとき、私は姜尚中の時代認識にもはや異論を唱えることはない。

姜尚中の言う「戦後という時代が終ろうとしている」という台詞には実体が無い。その言葉、表現には何のアクチュアリティも存在しない。あるのはただ丸山真男の「近代主義」を批判する際の枕詞、丸山真男を「過去の人」としようとするための悪辣な慣用句としての存在感のみである。実体のない枕詞の台詞でも、百遍言い続けたならば「偽りのリアリティ」が染み出してくるのかも知れない。姜尚中が本当に心から叫びたいのは「近代主義の丸山真男の時代が終ってポスト近代主義の姜尚中の時代になったのだ」という一言なのであろう。叫びたければ叫べばよい。無理に我慢して婉曲的な表現に止めるのは体に毒である。けれども、その叫びに共感して首をタテに振ってくれる市民社会のオ−ディエンスは、残念ながら一人もいないと私は思う。

今の時代は歴史的転換期だとか、一つの時代がいま終ったとか言って、中身の無い文章を仰々しい言葉で飾り立てるのは売文家たちの常である。売文家たちが小遣稼ぎに文章を書けば、毎日毎日が歴史的転換期の決定的瞬間となる。NHKが『秀吉』を演ると決まれば「今の日本は戦国時代と同じ歴史的転換期の真っ只中」となり、NHKが『徳川慶喜』を演ると聞けば、月刊誌の正月号は「現在の日本は幕末維新と同じ激動の歴史的転換期を迎えた」と騒ぐ売文屋たちの文章で一色に染まる。要するに一日一日の退屈で味気ない日常の中で、庶民が「現代」を歴史的転換期に準えることによって束の間の興奮と仮想現実を楽しんでいるだけである。それらは居酒屋でサラリ−マンが流し込むジョッキのビ−ルと同じである。

(2)何が変わったのか、そして誰が消えるのか

姜尚中は『丸山真男と市民社会』のシンポジウムのなかで、一つの時代が終って新しい時代を迎えつつある事実の根拠として日本人の歴史意識の着実な成熟を挙げている(ようである)。

先ほど石田先生から「他者感覚」の喪失ということ、それをどう再生させるかというお話がありました。しかし戦後五○年の、もう一方の、しかも非常にマジョリティの側の現実には、ある意味において他者を抑圧、扼殺した歴史意識というものが静かに、しかし着実にひろがっているという面もあるわけです。

(『丸山真男と市民社会』67 ページ)


私はその事実認識に一つの反論を加えたい。

四年ほど前、北朝鮮で核疑惑が持ち上がり、そして「労働」ミサイルの日本海への発射の事実が確認されたとき、日本社会では一体何が起こったか。朝鮮学校へ通うチマチョゴリの女子高生たちがどんな酷い目に合わされたか。制服をナイフで切られ、顔面を殴られ、髪の毛を掴んで引き摺り回され、石を投げられ、大怪我をする女子高生たちが続出した。その被害の状況は、件数も地域も日を追う毎に拡大して行った。そのあからさまな私刑と暴力は、電車の中で駅構内で、すべて白昼堂々公衆の面前で行われたものだった。同じ人間が、同じ時刻に、同じ被害者を追い詰めていたぶっていた。

犯人が逮捕されてその名前や顔写真が新聞やテレビに出るということはなかった。それはまるで、日本の学校で慢性化していた「苛め」のように取り扱われていた。朝鮮学校の女子高生が目の前で暴行されても、苛められっ子が苛めっ子に殴られているのを見るように、電車や駅の公衆たちは、黙って何もせずただそれを傍観していただけだったのである。彼女たちを救けようとせず傍観していたのは、駅や電車の公衆たちだけではなかった。新聞もNHKも、警察も政治家も何も動こうとはしなかった。日本のマスコミは、逆に北朝鮮疑惑報道ばかりを連日煽っていた。彼女たちを救けようとして「やめろ」と大声で叫んだのは一人久米宏だけだった。

関東大震災のときの朝鮮人大虐殺の話と一体何が違うのだろうか。一体何が変わったと言うのだろうか。一体、どういう時代が終って、どういう新しい時代が始まったと言えるのだろうか。「戦後」が終ったポストモダンの日本で起こった社会的真実が、この朝鮮女子高生大量私刑事件であった。姜尚中がそのときそれを見て何をしたのかは私は知らない。私が許せなかったのは、民団が何もしなかったこと、目の前で同胞が苛められているのを見ながら、韓国政府が何も手出しをしなかったことである。なぜ民団は動かないのか。なぜ韓国は女子校生たちを救けようとしないのか。なぜ民族同胞のために立ち上がろうとしないのか。久米宏のニュ−スを聞きながら、私はそのことばかりを歯噛みしながら思っていた。

ホ−ムペ−ジ閲読者の皆様の中で挙手して下さる方があれば、私はここで一つの賭けをオファ−してみたい。二○年後の日本の書店で、姜尚中の著書と丸山真男の著書と果たしてどちらが消えているかである。姜尚中の言うように丸山真男が戦後という時代に刻印された近代主義の思想家であり、そしてその時代の終りとともに退場して行く存在であるのなら、二○年後の書店の書棚に丸山真男が生きていてはおかしいであろう。そこには丸山真男の退場を拍手で見送った偉大な思想家姜尚中の堂々たる姿が勇躍していなければならないはずである。姜尚中に大金を賭ける勇敢なチャレンジャ−はいないだろうか。

二○年後、東京神田に三省堂本店はあるだろう。消えてなくなっていることはないだろう。そこには大塚久雄の元気な顔がある。丸山真男は堂々と胸を張っている。吉野作造も、福沢諭吉もなお健在である。姜尚中はいるだろうか。書棚を隅から隅まで探し回って、姜尚中の姿を見つけることはできるだろうか。ポストモダンの言説を吐き散らして八○年代から九○年代の論壇を支配していたあの一団の連中の姿を見とめることができるだろうか。流行は常に消費され償却され忘却されるためにある。彼らが生き残ってそこに老醜を曝すためには、彼らがポストモダン主義から転向して別の流行思想に身を合わせるしかないだろう。

ちなみに現在の時点で丸山真男について言えば、来春中に東大出版から『日本政治思想史講義録』が出版されることになっている。全六巻ともそれ以上とも言われているが、その規模や内容の正確な実像はまだ分からない。他にもう一つ、丸山真男自身の著作が某出版社より近日刊行される計画を聞いている。相当な販売数量が見込まれるであろう。また石田雄が「あれは出してもいいんじゃないですか」と丸山真男に迫った『正統と異端』研究の論文もある。吉祥寺本宅で発見され研究者たちによって慎重に整理吟味されている段ボ−ル箱数箱分と言われる未発表原稿の山がある。『丸山真男手帖』に逐次掲載される丸山真男の蔵出し講演録もいずれ新刊本となって店頭に並ぶことだろう。岩波書店『丸山真男集全十六巻』は丸山真男が生前許可した限りの作品集であり、座談会や討論会での貴重な発言の数々は収録されず落とされている。「それらを出してくれ」という読書市場の声は日々高まってゆく一方である。

売れるものは売れるときに出した方がいい。これは商売の鉄則である。果たして五年後十年後の日本の書店の哲学思想コ−ナ−はどのような商品のアソ−トメントになっていることだろう。私はそれを想像するたびに夢が膨らんで来るのを抑えられない。そして一方で日本の政治情勢の緊迫、戦後民主主義の危機は、読書市場における丸山真男需要を一段と加熱加速させてゆく。他に読むものがない日本の読者市民たちは、丸山真男を手に取って自ら民主主義の自衛を図る以外にないのである。さらに他方、外国から特にアジア諸国からのすぐれた丸山真男研究書が輸入され、日本の読者の知的関心を大いに刺激してくれるだろう。丸山真男とその関連の著作はどんどん増えて書棚を埋めてゆく。二十一世紀の日本の書店は、こうして恰も「丸山真男の時代」の如き景観をわれわれに示しているのである。


2、帝国主義の「前期的」形成と英仏近代史の「二重性」

(1) 近代日本の「アポリア」と金容徳の「歴史認識」

もう一つ、姜尚中の丸山真男批判の中で気になる表現がある。

日本の独立が、同時に、後発的な帝国主義国家の誕生であったというこの両義性をどう解くのか。これこそが、とりもなおさず、日本の近代史最大のアポリアです。植民地帝国としての欧米列強のなかでいかにして独立を保つかに腐心するとともに、日本は、独立国家として治外法権や関税自主権を得るために明治期のすべてを使いました。と同時に、すでに日清戦争期から、日本はミニ植民地帝国としての道をも歩んでゆくわけです。こうした二重性、両義性をもった近代国家の歩みは、ドイツを例外とすれば、すくなくとも欧米にはなかった歴史ではないかと思います。そこでの国家理性をめぐる問題をどう考えるかというのが、丸山先生とお話する機会があればいちばんお聞きしたかった点であり、私にとって最大の疑問点です。

(丸山真男と市民社会 『いま丸山真男を語る意味』 72 ページ)


この議論は、日本の近代と近代国民主義についての、そして丸山真男と福沢諭吉に対する姜尚中の懐疑の表明である。近代日本は、健全なナショナリズムが外圧に抗して国民国家を形成建設するプロセスであると同時に、アジアに向かって武力侵略し、大陸と南洋地域を植民地支配し、そこに住む住民を暴力的に皇民化してゆく後進型帝国主義の収奪と抑圧の歴史でもあった。太平洋戦争で最終的に崩壊することになる残酷で醜悪な大日本帝国の侵略と支配の構図は、その近代日本国民国家が形成される出発点から、たとえば北海道開拓や琉球処分において明確に痕跡を持つものであり、近代日本そのものに刻印された忌まわしい本質的属性であった。近代日本はそのような光と影の二重性を本来的に帯びており、その二重性の問題こそ近代日本を科学的に解読する上での最大のアポリア − 「近代日本のアポリア」 − であるという議論である。

姜尚中は「私がひとつ疑問に思うのは、そのあいだがどうつながっているかということを、丸山先生がどうお考えになっていたのかということなんです」と言っている。すなわち、近代日本の国民国家形成についての丸山真男の把握が、大日本帝国内部の異質性やアジア諸国への帝国主義侵略の真実を十分に配慮しようとしない一面的なものであり、オリエンタリズム的偏向の残滓を引き摺るものであり、すなわち「近代主義」的な認識方法の限界性を示すものであり、それは今や「終焉」と「退場」の時であると丸山真男を批判しているのである。

ここで考察されるべき問題点は、この「アポリア」を設定する視角、すなわち方法的な態度についてである。姜尚中の発言「こうした二重性、両義性をもった近代国家の歩みは、ドイツを例外とすれば、すくなくとも欧米にはなかった歴史ではないか」を見ると、このアポリア(近代国民国家形成と帝国主義侵略支配の二重性)が日本独特の問題系として批判的に把握されている点に気づかされる。ドイツについての言及はあるものの、それ以外のヨ−ロッパの近代国家については言及されていない。すなわち、英国やフランスの近代国民国家形成史においてはこの「アポリア」は存在しないのである。西欧近代はこのアポリアから自由な存在である。アポリアから自由ないわば無傷の近代史が、日本の歪な近代史の裏返しとして存在する。傷の無いスマ−トな近代国民国家の存在という歴史認識の前提が、その対極としての日本という歪な二重性格の近代国家の存在をシンボリックに問題化させている。

この議論を聞きながら私が思い出したのは、岩波書店が戦後五○年を期して企画した『敗戦50年と解放50年』(岩波書店 一九九五年)のシンポジウムであり、そこで報告された韓国知識人の(問題を含む)歴史認識の議論であった。

この『敗戦50年と解放50年』シンポジウムは、安江良介と池明観、そして坂本義和と大江健三郎らが中心となって企画開催された大いなる日韓アカデミックイベントであったが、報告と討論の全体をトレ−スした印象としては、あまり十分に噛み合った議論には終わっていない。たとえば日本の知識人側からの問題提起(坂本義和の「国境を超えた市民社会論」)に対して韓国知識人側が反発と疑問の意をあらわすという具合に、必ずしも岩波書店が企図したような共通の歴史認識と共通の問題意識の方向へは収斂して行かなかったようである。

それでも全体としては有意義かつ友好的な雰囲気で進行していた日韓シンポジウムに、突然、相当に深刻なアクシデントとなる一石が投じられた。それは『歴史の清算をめぐって』と題された東京ラウンド第一セッションにおいて冒頭報告された金容徳ソウル大教授による『不幸な歴史の土壌、健全な未来の土台』での過激な歴史認識の議論であった。金容徳教授はソウル大学東洋史学科学科長の要職にあり、まさに韓国の歴史学界を代表するキイパ−スンであり、韓国アカデミ−においてスタンダ−ドな歴史認識を司る最高責任者の立場にある人間である。

しかしながら、彼の口から報告された歴史認識は、われわれ日本人にとっては非学術的政治用語である「日帝」という言葉が縦横に飛び交う凄まじいものであった。われわれはたとえば「米帝」という言葉を学術用語とは見做さないが、韓国歴史学においては「日帝」は学術用語であるらしい。そうした過激な民族感情発露の部分はともかくとして、われわれの目から見て(学問的に)気になったのは、彼の世界史における列強の植民地支配についての歴史認識である。多少長いが、その問題の歴史認識の部分を引用しよう。

近代科学文明に基づいた西洋的普遍理念の伝播者として先頭に立った日本は、韓半島を占領し、「植民統治」を行ったと言って、それはひとつの植民主義(colonialism)の範疇に入っている。だが、近代的な植民主義とは一般的に、すでに隆盛となった帝国主義国家が、自国民を開拓民として移植したり、文化水準のへだたりの大きいところ、あるいは、文化内容のちがいのはなはだしいところを、帝国の版図の拡大した地域として支配することをいう。西欧列強がすでに強力な帝国主義国家と化し、自国民を世界のあちこちに移住、開拓させたり、アフリカ大陸のように文化水準の格差が顕著なところ、または英国とインドの関係のように文化内容が明確にちがうところを支配したのが植民主義の典型的な例である。文化的な面から見る時、こうした例では葛藤がそれほど深刻ではなく、その後遺症もいやしうるものであった。文化水準の格差が大きいところでは、植民帝国の文化が一方的に植民地を圧倒しえただろうし、文化内容のちがいが顕著なところではいくら植民帝国の文化だといっても、実際に現地の伝統を弱め破壊するだけの力を持ち得なかったためだろう。現地の文化が植民統治を通じて向上したところ、あるいは制限された範囲内でのみ植民帝国の文化が影響をおよぼしたところでは、植民統治が終わってからも、相互の憎悪よりは信頼と友好の関係が受け継がれた例が多い。代表的なものがイギリス連邦の樹立である。

日本の場合はちがった。まず、日本みずからが西洋列強の圧力に屈して門戸を開放し、国際的条件の変化に勢いづけられて植民地に転落する危機をのりこえることができた。決して強力な帝国主義に転化してから海外侵略に進んだのではなかった。

(岩波書店 『敗戦50年と解放50年』 106 ページ )


結論から言って、この歴史認識は欧米諸国による植民地支配を合理化する歴史認識であり、返す刀で日本の植民地支配を特殊で歪で非合理的なものとする見方である。金容徳はこの報告において、日本の植民地支配は、歴史学的に欧米的な「植民主義」(colonialism)の概念では一括できない特殊で異常なものであり、したがって日本による朝鮮支配を「植民地支配」と呼ぶのをやめようではないかという大胆な提案を日本側につきつけるに至る。要するに韓国史から「被植民地支配」の汚点を消去しようとする学問的意図である。和田春樹が司会を務める「歴史の清算」セッションは大いに動揺を見せるのだが、最終討論において坂本義和が登場し、この金容徳の誤った歴史認識を手厳しく批判して始末がつけられた。詳細は『敗戦50年と解放50年』をご覧いただいきたい。

シンポジウムの顛末は上のとおりだが、われわれは、この金容徳の歴史認識が根幹において姜尚中のそれと全く同じものであることをよく理解できる。要するにイギリスやフランスの近代史は、国民国家形成においても、帝国主義植民地支配においてもマイルドでピュアで傷の無い理念型的なものであったのに対して、日本のそれは異常で歪んだ非近代的なものであるという歴史認識である。「アポリア」を抱える近代史は日本だけだという歴史認識である。金容徳の議論については、またあらためて精密に検証を加えたい。今回は、果たして姜尚中が言うようにイギリスやフランスの近代史には「二重性」は存在しなかったのか、「アポリア」は存在していないのかという問題について、私なりの意見を簡単に申し添えておく。

(2) イギリスとフランスにおける近代国民国家形成

英国の近代国民国家形成史については様々な議論がある。それは一見明瞭なようでありながら、実は複雑で奥が深く混沌として社会科学的な整理判別が難しい。そして私が注目するのは英国近代とアイルランドとの関係の問題である。クロムウェルが突如アイルランドに武力侵攻し征服したのは、チャ−ルズ1世の首を斬り落としたその年、一六四九年であった。クロムウェルがアイルランドに侵攻した理由について歴史書は、チャ−ルズの息子が亡命先オランダで2世として即位し、スコットランドやアイルランドがそれを承認したため、反動の拠点であるアイルランドを叩く必要があったからと説明している。上陸したクロムウェルはアイルランド住民を容赦なく大量虐殺し、教会の司祭や修道士を見つけては棍棒で頭蓋を叩き割った。

アイルランドの人口は一五○万人(一六四一年)から八五万人(一六五二年)に激減する。一六五二年、早くも「アイルランド植民法」が制定されて土地没収が行われる。アイルランド人は土地を奪われて貧しい小作人になるか、北米大陸に落ち延びて生を繋いで行くしかない悲惨な運命を強制される。アイルランドが英国から独立するのは遥かに二七○年後の第一次大戦後のことである。英国によるアイルランドへの武力支配と苛斂誅求は「クロムウェルの呪い」が三世紀間変わらず続く、苛烈で無慈悲で残酷な「準ホロコ−スト劇」そのものであった。十八世紀に確立する英国の産業資本の優勢とそれに後押しされた英国の北米大陸争奪戦勝利は、アイルランドという蓄積基盤(植民地)の前提を抜きにしては考えられない。

もう一つの近代史、フランスの近代はどうであったか。ここにも々様々な議論が、物語や概念が乱舞して興味が尽きないが、ここで注目するべきはナポレオンのフランス帝国、特にそこにおけるフランスとスペインの関係である。一八○八年、ナポレオンはスペイン全土を支配するべく一気に軍をマドリ−ドに突入させる。ゴヤが『モンクロアの虐殺』で描いたマドリ−ド市民の壮絶な蜂起とそれに対するフランス軍による大虐殺が行われたのは五月三日のことであった。ナポレオンがスペイン領土の直轄支配を目論んだのは、後進国スペインがイギリスと組んでフランスの背後を脅かす存在となるのを未然に阻止予防するためであり、また興隆しつつあったフランスのブルジョワジ−に新市場を提供するためだったと言われている。

フランスのスペイン侵略は、結局ナポレオンのワ−テルロ−敗北とともに破綻する。しかしフランスの(基本的国家戦略としての)南下政策はその後、一八三○年からのアルジェリア侵略となって復活し、領有したアルジェリア植民地(一八四七年)を橋頭堡にして広大な北アフリカ領分割支配へと続いて行く。その軌跡は、十七世紀に英国の「前期的帝国主義」が西へ向かった軌跡とよく似た内容のものであった。

英国もフランスも、その国民国家形成の瞬間はすなわち革命の瞬間であり、また外圧に取り囲まれた瞬間である。危機に瀕した祖国と革命を守るべくナショナリズムが燃え上る。そして軍事カリスマが登場する。外圧を突破して革命と国民国家の防衛が果たされる。その外圧に対する武力突破は、同時に境を接する隣国に対する武力征服であり、革命の輸出の衣を纏った「前期的帝国主義」の無慈悲な侵略支配そのものであった。

英国もフランスも、はじめから巨大な帝国主義国家として歴史に登場したわけではない。その帝国主義の領土拡大には歴史的(=前期的)なプロセスが存在する。そして美しい物語であるはずの国民国家形成史のメダルの裏側は、隣国の民衆に地獄の苦しみを押しつけて長く怨恨を残す暴虐な帝国主義侵略史そのものでもあった。英国もフランスも「二重性」から自由ではない。「近代のアポリア」はドイツ史のみならず、英国史もフランス史も決して自由にすることはないのである。それは「近代日本」だけの問題ではないのである。

西郷・桐野らの征韓論には熱病のような極端な危機意識が取り憑いていた。それはロシアの南下に対する危機感であり、南進するロシアが朝鮮を併呑し、さらに南下して日本を呑み込むだろうという切羽詰まった脅迫観念であった。革命と内戦を経験した人間の世界観は(指導者であれ庶民であれ)血生臭くドラスティックに一転する。それは平和の時代において長く続いた伝統的で固定的な世界観や国家観を一変させるものである。戊辰戦の内戦をようやく勝利させて東京に革命政権を樹立したとき、彼らの世界地図はもはや江戸幕府期のそれと同じものではなかったはずである。革命政権は革命の防衛と革命の輸出のために「旧国境線」をたやすく踏み越えて行く。それはある種の戦場心理とも等しいものと言うことができるだろう(それを擁護弁護しようと言うのではない)。白軍を追撃してブク川を渡河したボルシェヴィズムのポ−ランド侵攻(一九二○年)を想起せよ。

姜尚中の丸山真男批判は、丸山真男の「国民主義」を、さらには福沢諭吉を批判しつつ、近代日本あるいは明治日本そのものをト−タルに批判の射程に据えようとするものであった。それはポストモダニズムによる近代主義批判であるのと同時に、ポストモダニズムによる日本批判の視角であると言えるだろう。しかしそれを追求するあまり、オリエンタリズムを批判するはずの姜尚中が意図せずオリエンタリズムの陥穽に囚われてしまった事実をわれわれはここに発見した。それは、英仏西欧の近代史には「アポリア」は無いという誤った歴史認識であり、その視角からの誤った近代日本批判である。それは実のところ、姜尚中自身の内なる「ナショナリズム」が媒介したものではなかったのか。金容徳と姜尚中の歴史認識が同じものになる理由として、私はそれ以外のものを想像することができない。


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