4、「夜店」と「本店」 − なぜ丸山政治学は消えたのか −


六○年代を迎えるに至り、内面性を欠いた学問の社会的分業の進展、形式的制度と権力関係のうわべのみを動力としてズルズルと専門化を進める日本のアカデミ−の現状は、丸山真男にとってもはや容易ならぬ事態となる。「日本の思想」に収められた「タコツボ文化とササラ文化」はそうした危機意識のなかで書かれたものと言えるだろう。しかし、一度走り出した機関車を誰も止めることができないように、分業と予算の軌道の上を惰性で走り続けるアカデミ−の自己増殖運動を誰も止めることはできなかった。走る列車の窓の外では、薔薇色の高度経済成長がいつ果てるともなく続いていたのである。

そうした中で、遂に丸山真男自身が、政治学と政治思想史を一人格において統合する任務から引退する時を迎えることになる。自ら、政治思想史を「本店」と呼び、政治学を「夜店」と呼び、「夜店」の放棄撤退を宣言するに至るのである。この「本店」と「夜店」の分離と撤退の問題は、現在でもなおよくわからない部分が多くある。けれどもそれは、丸山真男本人が、政治思想史と政治学の分離分割を認め、それぞれの学問が別々の目的に向かって別々の研究者によって担われることをオ−ソライズした事実であることには違いない。丸山政治学にペシミズムの影が色濃く映るようになるのはこの分離分割発言からである。

今日、日本の政治学者は、政治学と政治思想史の分離分割の上に安んじて仕事を続けることができる。どちらかの専門家であればよい。政治思想史の専門フィ−ルドを持たない政治学者でも決して後ろめたい気持ちを持たなくてよい。古文・漢文が読めなくても英語だけでOKである。その分割、従って政治学者の専業化の正当性は、最終的には、日本政治学会の創業者である丸山真男自身の「本店・夜店」発言によって担保されている。

そして現在、丸山真男におけるPolitical Theoryの部分の業績なり成果なるものは、何やらある種の偶然的なアルバイトのようなイメ−ジで捉えられている。丸山真男は最初から最後まで徹頭徹尾日本政治思想史研究者であった。たまたま終戦直後に東大の政治学の講義を担当する者がいなかったため、政治思想史から丸山真男が出張って講義を代行しなければならなかった。それが「夜店」の政治学である。しかし、それはあくまで偶然のアルバイトの所産であり、政治学と政治思想史の学問的統合を目指したというようなものではなかった。晩年の対談の中で丸山真男自身がそのような言い方をしてしまっている(岩波「図書」1995.7 )。

もともと丸山真男は日本思想史の研究者であったのだけれど、たまたまお父様の幹治さんの血をひいて優れたジャ−ナリズムの才能があったばかりに、半分余興で現代政治の分析考察に嘴を突っ込んでしまったのだ。それがなかなか立派な論文ばかりであったから、丸山真男は政治学者というもう一つの肩書を持つことになり、二足のワラジを履く結果になってしまったのだ。優秀な人間は何でもできる。徳川家康や慶喜のように。こういうイメ−ジであり、理解のされ方である。今の若い学生たちのほとんどが、そういう丸山真男像を持っているに違いない。

未来社刊の「現代政治の思想と行動」は、本来、丸山真男という政治学者、思想家の代表作品であるはずである。彼が世に出したプロダクトの中で最も完成度の高い著作が「現代政治の思想と行動」である。それに比べれば、東大出版刊の「日本政治思想史研究」も、筑摩書房刊の「忠誠と反逆」も、はるかに習作的・試論的な色合いが濃厚な作品であると言い切って差し支えない。けれども、現在の一般的な空気(評価)は決してそうではない。「日本政治思想史研究」と「忠誠と反逆」の方が丸山真男の代表作であり、「思想と行動」の方が何か偶発的で特別な著作のように位置づけられ、観念されてしまっている。

九○年代に入ってその傾向が明確に固められることになった。「忠誠と反逆」の出版、そして西谷能雄翁の死去の事実がその傾向に拍車をかけたと言える。九○年代を迎えたとき、丸山政治学を継承するべきお弟子さんたちは皆、政治思想史学の専門家ばかりとなっていた。

丸山真男は、自身それを「夜店」などと言うべきではなかった。また、政治学を引き払って政治思想史に徹するなどという態度をも見せるべきではなかったのだ。それは「愚痴」である。それを言うことは自分の政治思想史研究さえも貶めてしまうことである。両者は学問として一つのものである。政治学のみならず、政治思想史という学問もまた、新設の、そのとき生まれたばかりの赤ん坊だったはずなのである。

丸山真男が日本政治思想史の世界に専門家として還ろうとしたのは、やはり自分のPolitical Theoryがうまく日本の現実をドライブすることができなかったからではないのだろうか。結果を出すことに失敗した(と思った)からではないだろうか。これは私の邪推である。邪推をベースとした質の悪い丸山真男批判である。しかし私にはそういう繋ぎ方で「政治学と政治思想史の分割」の問題を理解するしか能が無い。六○年安保以降、丸山真男の理論研究は日本思想史の領域に限定されることになり、そして活動の主舞台は欧米の大学の研究室の中へと移って行く。

しかし例えば、あの「闇斎学と闇斎学派」を読んでも、晩年の「政事の構造」を読んでも、丸山真男の政治思想史研究が、宿命的なまでに現実政治と交渉を持とうとする政治思想史であり、その理論が現実政治の実態なり矛盾を鋭く浮かび上がらせようとする政治思想史であることが、われわれにはよく分かる。その論理を追跡しようとして浮かんでくる具体的イメ−ジは全て、われわれの眼の前にある現代日本の生々しい政治的現実ばかりではないか。丸山真男の政治思想史作品は、どうしても歴史学になることのできない思想史、本来的にinformationにとどまることのできないintelligenceの思想史なのである。その真実は誰にも否定できない。

「夜店」と「本店」という言い方は丸山真男のエクスキュ−ズである。より厳しく言えば「逃げ口上」である。丸山真男本人はその表現をごく身近な周囲にのみプライベ−トに語っていたのに違いない。しかしそれが一般に広まり、一人歩きして行った結果、とうとう政治学と政治思想史の二分割をジャスティファイする最終的な根拠として機能することになってしまった。丸山真男はそれをどのように思っていたのだろうか。結局、丸山真男のPolitical Theoryはアルバイトの政治学として、戦後民主主義と名づけられた過去の空間に歴史化され、その思想史の業績もinformationとしての価値を認められないまま中途半端な評価の中に浮いている。弟子たちは皆、informationの政治思想史、事実を整理する政治思想史、歴史学から評価を貰える政治思想史へと収斂して行った。そして..。

今、われわれの前に丸山政治学はないのである。


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