山崎闇斎

1618−1682
元和4年−天和2年

京都に生まれる。通称は嘉左衛門、名は敬義、闇斎は号。はじめ延暦寺に入って僧侶となり、次に妙心寺に移る。土佐藩侯に才能を評価され、また野中兼山の推挙によって高知の吸江寺に移り、谷時中に就いて朱子学を修める。強烈放胆な性格によって諍いを生じ、土佐を追われて京都に帰り、門弟を集めて私塾を開く。1665年会津藩主の保科正之に招聘され、治世を輔佐する。朱子学の「大極」範疇を日本書紀の神代記に付会させ独特の習合思想を確立。五四歳のとき吉川神道の伝授を受けて垂加神道を称える。


(闇斎は)性格強烈で、圧倒的な感化力をもった教育家であり、門人六千人といわれ、その影響は実に広汎に及んでいる。峻厳酷薄にしてうるおいと情味に乏しく、清濁併せ呑むの度量に欠けていたという評は免れ難い。いわば一種の宗教的ファナティックである。だから、それが一方では多くの弟子を吸引する魅力となったと同時に、他方では俊秀な弟子をその門から喪った。崎門の三傑と言われた浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎のうち前二者はいずれも師の説にそむいたかどで破門されている。

闇斎は、「朱子を学んで謬らば、朱子と共に謬るなり、何の遺憾かこれあらん」というほど無条件に朱子に帰依した。この態度が彼の本来の性格と結合して、朱子学のリゴリズム、形式主義、イントレランス(非寛容)等、後世反朱子学的潮流によって攻撃目標となった緒特徴は、ほとんど典型的な形で闇斎学に見出される。独自の個性を持った弟子は、いつかは闇歳と衝突する。

彼は敬義を以て教学の根本とした。

「敬義の説に従ふ人は十人は十人、百人は百人、幾誰に聞ても■し出せる書画の如く一様なり」(学問源流)

そうしてこの闇斎のファナティカルな学問態度が逆に晩年の彼を駆って垂加神道の樹立に赴かしめた。 度会延佳と吉川惟足より神道を受く。それが依拠するのは神道五道書(吉見幸和によって偽書たることを暴露さる)であり、その鎮座伝記・宝基本記、及び倭姫命世記のなかの「神垂は祈祷を以て(中略)」をとって垂加と名づけたのである。その内容は朱子学の範疇を神代紀の記事に適用、いな、むしろ附会したもので、それを可能ならしめる論理的根拠を彼は天人唯一の理に求めた。しかし朱子学の合理主義的精神は彼に於てむしろ背景にしりぞいて、その代り、土(ツチ)と敬(ツツシム)と訓が似ているところから、神道の根源を土金にありとし、これを宋学の持敬に合わせて説いたり、猿田彦神を崇拝し、庚申の日を以てこれを祭ったり多分に迷信的色彩を帯びている。全体の傾向は強烈な神秘主義で儒教的合理主義からは遠い。佐藤直方や浅見絅斎は結局こうした点にあきたらずして闇斎の門を去ったのである。

(『日本政治思想史講義録』1948年 113-114頁 第四章 初期朱子学者の政治思想)


その学統は連綿として明治以後まで、ほとんどきれ目なく継承されている。維新という大変革をいかに理解するにしても、幕藩体制の解体と、怒涛のような西欧文明の流入が、学問所・藩校といった制度的なレヴェルにとどまらず、イデオロギ−の比重の上でも、またヨリ日常的な言説における儒教的範疇の流通度からいっても、おしなべて江戸儒学に致命的な打撃をもたらしたことは、いまさら贅言を要しないであろう。こうした打撃を蒙った点で維新後の崎門派ももちろん例外ではない。にもかかわらず、江戸儒学の諸派のうち、学派としてもっとも早い立直りを近代日本で見せたのは崎門派であった。

(『闇斎学と闇斎学派』丸山真男集 第十一巻 232頁)

わが国における儒学移入の淵源の古さにもかかわらず、また日本近世の程朱学の複数的な源流にもかかわらず、程朱学を理論と実践にわたる世界観として一個一身に体現しようと格闘した最初の学派は闇斎学派であった。(中略)かしこにおいて崎門の「絶交」が林家の「阿世」と対比されたように、ここでも「ハヅミ」は林家の事(わざ)、つまりタレント性と対比されているわけである。「ハヅミ」はたしかに崎門の豪傑たちを、それぞれの仕方で「行き過ぎ」させる動力でもあった。けれども、この行き過ぎによって闇斎学派は、日本において「異国の道」− 厳密に言えば海外に発生した全体的な世界観 − に身を賭けるところに胎まれる思想的な諸問題を、はからずも先駆的に提示したのではなかったか。そこに闇斎学派の光栄と、そうして悲惨があった。

(『闇斎学と闇斎学派』丸山真男集 第十一巻 306-307頁)


岩波文庫
『垂加翁神説・垂加神道初重伝』
村岡典嗣 校定
410円