平田篤胤


1776−1843
安永5年−天保14年

出羽国秋田佐竹藩の藩士の子として生まれる。幼少、浅見絅斎の流れを汲む中山青我に漢籍を学び、国学を修めて古道研究の端を開いた。二○歳のとき江戸に出て苦学し、二五歳のとき備中松山藩士平田篤穏の養子となって藩主板倉家に仕える。本居宣長に入門せんとするも宣長没により果たせず。三三歳のとき神祇伯白川家より神道教授、吉田家より学師の職を受ける。没年に至るまで、該博の学殖と絶倫の精力をもって著述に従った。儒仏を排して皇道の発揚を唱導したが、宣長学に比べて著しく宗教的神秘的色彩が濃厚であり、儒教・仏教・蘭学さらにキリスト教を援用して自説の権威づけに努めた。幕末、篤胤学は尊皇攘夷運動の一支柱となり、その影響は地方豪農層にまで広く及んだ。

『古道大意』『古史伝』『霊能真柱』等千巻に近い著作がある。


篤胤は、たしかに宣長の古学に内在していたモメントをちょうど上田秋成と逆の方向に発展させたものであるが、それはそもそも国学の出現した思想史的意味からすれば、むしろ逸脱であり、新たな方向への変質と理解さるべきものなのである。

篤胤は自らの学問を古道学ないしは皇国学と称した。古道とは、彼によれば「古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる」(古道大意、上)ここから、彼は、「一体真の道と申す者、実事の上に備はり有る者にて候を、世の学者■は兎角、教訓の書ならでは道は知り得難き様に心得候へ共、甚誤りに候。其故は実事が有れば教は入らず、道の実無き故に教は起候也。されば教訓と申す者は実事より早き者にて候」(文政三年、古道学大旨)と言って、国学をば教えに対する実事の学として特質づけた。この点ではまさしく宣長学の継承者であった。

しかし彼の本来持っている実践的意思的性格、ならびに彼が、純学究に終始した宣長とちがって、早くより大衆への講説を主要なる活動とした等の事情からして、彼の思想は、単なるザインの学を超えて、まさに一つの規範的教説たる色彩を濃厚に帯びることとなった。彼の一生は、儒教・仏教・神道諸派等とのはげしい闘争に終始したが、このことは自ずからまた彼の古道論をして、戦闘的実践的性格を付与することとなったのである。この側面こそが、彼の篤胤学をして、宣長とちがって一つの政治的社会的力たらしめた所以なのであるが、しかし同時に、それは国学が持っていた最大の武器としての文献的実証的精神の犠牲においてのみ可能であった。(中略)しかも一般に古伝説の解釈にあたっても、宣長に於てはあくまで記紀の記載に忠実に、論理的に明快ならざるところは不明瞭のままに理解したが、篤胤はそこに大胆に自己の積極的見解を介入させて、これを一個の完結した神学体系に構成しようとしたのである。

(『日本政治思想史講義録』1948 227-228頁 第十章 国学思想の発展)

彌高神社
篤胤と信淵を合祀
秋田市 千秋公園