三浦梅園


1723−1789
享保8年−寛政元年

豊後国国東郡西武蔵村生れ。名は晋、字は安貞。家は代々医を生業とし、梅園自身も村の医師であった。綾部絅斎・中津の藤田敬所に儒学を学ぶ。条理学を提唱。一五歳の時より詩に志し、二一歳の時『独嘯集』という詩集を著した。三○歳の時より大著『玄語』を起草する。『玄語』が未完に終わったのとは対照的に、第二主著『贅語』は梅園没年に完成した。第三主著『敢語』は、四一歳にして完成した。これらを合わせて「梅園三語」と呼ぶ。


こうした(朱子学革新)学派と、他方古学派を標榜する堀河および■園学派の間には、泥沼のように果てしない論争が続いた。松平定信の寛政異学の禁は、こうした思想的混乱に対して下された教学統制の断であった。これは、朱子学に対して「正統」を認与したもので、それ以外の思想学派を禁止したものではない(中略)。定信の意図はともあれ、一般に当時は朱子学以外を否む空気になったとはいえ、もちろんかかる権力の統制により思想の内面的充実は期待しうべくもない。むしろ後期思想界に有力な地位を占めたのは、純粋な儒教学派に属する人々以外の中から出てきたのである。例えば、三浦梅園、海保青陵、佐藤信淵、山片播桃という傑出せる後期の思想家は多かれ少なかれ儒教的思惟の影響を受けたことは否めない。けれども、いずれも本来の儒学者ではなく、べつに特定の学派を形成せず、孤立分散的存在にとどまった。

(『日本政治思想史講義録』1948年 110-111頁 第九章 近世後半期の社会及び思想の大勢)

こうして、儒教思想の自己内分解過程を通じての近代意識の成長を、思惟方法の変容という観点から見ることにどの様な根拠があるのであろうか。(中略)われわれの問題にするのは、あれこれの思想における断片的な「近代性」ではなく、思想の系統的な脈絡のうちに一貫した近代意識の成長を探ることなのである。(中略)本稿は決して徳川期における網羅的な近代思想発展史を意図していない。まず個人として如何に優れ、如何に豊かな近代性を身につけていても全体の思想系列の上からは多分に孤立的である様な学者はそこで除かれている。新井白石や三浦梅園のごとき是である。

(『丸山真男集』第一巻 300頁 近世儒教の発展における徂徠学の発展並にその国学との関連 )

三浦梅園墓
大分県安岐町
岩波文庫
三浦梅園 自然哲学論集
尾形純男・島田虔次 編注釈
760円