石田梅岩


1685−1744
貞享2年−延享元年

丹波国桑田郡の農家に生まれる。名は興長、通称は勘平。石門心学の祖。八歳で京都の商家に奉公。二三歳で商家黒柳家に奉公。京都の小栗了雲に師事。1729年(享保14)四五歳で京都車屋町御池の自宅に講席を開き、心学道話を公開。神儒仏の三教を平易に説いて、町人農民に大きな思想的影響を与えた。「商人の利は武士の禄と同じである」と説き、商行為の正当性を強調。

『都鄙問答』『斉家論』『石田梅岩先生語録』等の著書がある。


聴講者の最も多くを占めたのは、都市の商人であった。その哲学は神道を中心とし、儒仏をこれに配し、三教一致の趣旨を説くもので、彼の長い体験的思索の到達した立場であったが、方法的には完全なシンクレティズムで、理論的な独創性は求められない。

「儒道仏道老子荘子に至るまで、尽く此国の相となるやうにもちいること可思。日本宗廟天照皇太神宮を、宗源と貴び奉り、皇太神宮御宝勅に任せ、万くだくだしきを払ひ捨て、一心の定れる法を尋て、天の神の命に合ふ唯一を相るに儒仏の法を執り用ゆるべし。ここを以て一法を舎ず、一法に泥ず、天地に不逆を要とす。」(都鄙問答、巻三)

という彼の言葉はよく、その思想の包容性ないし折衷性を表している。ただ客観的に彼の思想の構成要素を分析すると、そこで最も規定的な考え方をしているのが朱子学であることは注意せねばならぬ。

それは天地を支配する理が小天地たる人間をも支配するという基本的な立場から、性善を説き、放心を戒め、本然の性に帰って天地と合一することに究極の境地を見出すのである。しかも梅岩の教説は、ことごとく自分の立場として完全に咀嚼されているので、そこに却って朱子学的な思惟方法を明瞭に知り得るような場合が少なくない。ともあれ、商人階級が梅岩に於てはじめて自己の哲学を持ったとき、それは武士階級に於てすでに地盤を失墜せんとしつつあった朱子学的世界観であったということは意味深い。それが独自の哲学を持ちえなかったところに、町人階級のいわゆる勃興なる現象が本質的にまとっている歴史的制約が露れていると共に、心学が梅岩以後に辿った運命が早くもそこに予知されているのである。

武士階級にとっての規範が自然性を喪失して、人為的=外面的なものになりつつあるとき、町人階級は自己の活動する経済社会の中に漸く自然的秩序(天理)を感知するに至った。(中略)梅岩のまとっているこうした二つの性格 − 庶民の的自覚と、支配的倫理の通俗化 − のうち、梅岩以後の石門心学の巨大な発展は、ひたすら後者のモメントの成長として顕現れたのである。

(『日本政治思想史講義録』1948年 192-196頁 第八章 石門心学の勃興とその発展)

石門心学修正舎跡
下京区麩屋町通り五条上