熊沢蕃山


1619−1691
元和5年−元禄4年

京都稲荷(異説:五条)に生れる。名は伯継、幼名は左七郎、字は了介(一説に良介)、通称は次郎八・助右衛門。野尻藤兵衛一利の長男、母は熊沢亀女。八歳のとき外祖父熊沢守久の養子となる。

1634(寛永11)岡山藩主池田光政に児小姓役として出仕。1639年(寛永16)池田家を致仕、近江国桐原の祖父の実家へ移居。1642年(寛永19)中江藤樹に陽明学を学ぶ。1645年(正保 2)再び光政に仕え、1647(正保4)側役、知行三百石。1649年(慶安2)光政に随行して江戸参府。1650年(慶安3)鉄砲組番頭、知行三千石。1651年(慶安4)閑谷学校の前身花園会の会約(建学基本原則)を起草。1654(承応3)備前一帯の大洪水ついで凶作大飢饉の際、光政を輔けて救済に尽力。家老らと対立し、1657年(明暦3)致仕。

京都に移住し、塾を開く。1661年、京都所司代牧野親成により京都から追放され、吉野山さらに山城国鹿背山に移る。1669年(寛文9)幕命により明石城主松平信之にお預けとなる。1679年(延宝7)信之の大和郡山への転封に従い、矢田山に移住。1683年(天和3)大老堀田正俊の招聘により出府するも、出仕要請を辞退。1686年(貞享3)幕命により信之の嫡子の下総国古河藩主松平忠之へお預けとなり、城内に禁錮され、死去。

著書に『集義和書』『集義外書』『大学或問』『易緊辞伝』


蕃山は理論よりも当時の政治社会情勢に関する経験的観察に於て鋭いものがある。少なくも封建社会の矛盾の所在を洞察し、古代農兵制を理想とす。徂徠及び水戸学の先駆。当面の対策としての二重貨幣制の提唱等、具体的救済策をも考究している。

(中略)そこで蕃山は金銀銭と並んで米をも貨幣として通用させ、米で直接物を購買できる制度を主張する。それによって米価を維持し、また大都市への米の輸送による諸々の不経済を省き、地方地方での貯蔵によって飢饉や兵乱・外患に備えることができる。そうして。もはや米の大量貯蔵による米価下落を恐れる必要がないから、できうる限り、現在のすたり米をすたらせずに貯蔵する方法を講ずる。

蕃山によれば、「富有大業」の語は 『易緊辞伝』に出るけれども、その内容はあくまで現実の歴史的情勢に即し、その情勢に適応した対策であり、その意味でそれはあくまで現在のみに、一回的な妥当性をもつものと考えられた。しかしそれは現実のr継嗣的情勢への適応をなによりも考慮したというまさにこのことの故に、そこでの改革は当該社会構造の制約を受けて多く実行上の障害を伴う場合が多いことは否み難い。蕃山もそのことをある程度まで意識していたようである。米と金銀銭を貨幣として併用することについて、「少づつさしつかへる事はあれども....」とそ技術的困難を認めている如き、その例である。そこでむしろ、そうした現実への顧慮を一応一切、遮断して改革論に含まれたイデ−を純粋に貫徹していくと、そこに一つの理想的社会組織が浮かび上がってくる。蕃山はかかるものとして、昔の農兵制度を提示している。

この意味でも蕃山は、徂徠や水戸学によって唱えられ、幕末に喧しくなった農兵制度を近世の最初に提唱した人である。武士階級の窮乏を救い、更に武士を剛健にし(それらの目的のために土着せしめ)、さらに租税の点で武士の生活が簡素となれば、今のように重税をとらなくてもよくなるだろう、という彼の農兵制主張の根拠は、いずれも会沢正志斎らの農兵主義者に継承されている。

(『日本政治思想史講義録』1948年 131-133頁 第五章 朱子学的世界像の分解)

備前市伊里の旧宅跡 禁書『大学或問』
国立国会図書館蔵