大塩中斎


1793−1837
寛政5年−天保8年

大坂町奉行与力大塩敬高の子として生まれる。幼名は文之助、名は正高のち後素、字は子起、通称は平八郎、号は連斎・中軒のち中斎。篠崎三島に学ぶ。祖父の後見で一四歳のとき与力御書方見習として出仕。1811年(文化8)定町廻。江戸の林家に入門し朱子学を学ぶ。祖父の没後、家督を相続。1816年(文化13)呂新吾『呻吟語』を読み、知行合一の実践を説く陽明学に転じる。1817年(文化14)私塾洗心洞を設け、子弟に陽明学を講ずる。

1830年大坂東町奉行の高井山城守実徳が江戸に転任したおり、与力職を養子格之助に譲り隠居。洗心洞で陽明学の教授に専念。1836年(天保7)天保の飢饉の際、豪商の手先となる町奉行らを見て憤り、格之助を通して町奉行跡部山城守良弼に飢饉救済を申し入れるが一蹴される。さらに三井・鴻池ら豪商に救済費の借金を申し入れるがこれも断られる。平八郎は蔵書5万冊を売り払い、その金を窮民救済に当てる。檄文を摂津・河内・和泉・播磨に飛ばし、1837年(天保8)自邸に火を放ち門弟数十名らと「救民」の旗を立てて挙兵、豪商の蔵を討ち毀し金や米穀を窮民に与えたが、半日にして大坂城代・近隣諸藩の武力に鎮圧される。約40日後、格之助との隠れ家を発見され、捕吏に包囲された中で爆薬により自殺。二人の黒焦げの死体は塩漬けにされ、のち磔にされる。その後、同年6月生田万の乱などしばらく大塩一党と自称する百姓一揆が続いた


ひとはしばしば大塩中斎の例を挙げて、幕藩制の正統的教学としての朱子学に対して、陽明学の反幕府的色彩ないし反封建制を云々する。しかし、大塩の行動と彼の陽明学的立場とがどれほど深い内面的牽連を有するかは疑問とされなければならない。彼の決起の際の檄文を見ても、そこに儒教的仁政思想が背景をなしていることは分かるが、格別、陽明学的な特色といったものは見当たらない。知行合一といったモメントだけでは弱すぎる。

(『日本政治思想史講義録』1948年 88頁 第八章 近世儒教の興隆とその社会的基礎)