貝原益軒


1630−1714
寛永7年−正徳4年

筑前福岡藩士の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、通称は久兵衛。一九歳で藩に出仕。江戸、京都に出て木下順庵、山崎闇斎等多くの学者と交わった。1664年(寛文4)藩の儒官として福岡に帰り、膨大な博識を以って藩士を徳化。経験的実学への志向を強め、『大疑録』で朱子の理気二元論を否定して気一元論を説き、生得の性を拡充する独特の実践哲学を唱えた。

『益軒十訓』は仮名書の通俗教訓書で、青少年教育・女子教育等庶民教育に資するところが多い。他の著書として『慎思録』『養生訓』『大和本草』。


貝原益軒が「大疑録」を著わして朱子学に対する根本的な疑惑を表明したのは正徳四年、実に彼が八十五の長い生涯を閉じる直前のことである。しかし彼自ら「大疑録」の序において、

「篤信十四五歳より聖学に志す有り。夙に宋儒の書を読みて、敦く其の説に於て宋師之尚べり。復たかつて大に疑ふ所有り。然れども愚昧の資、発明する能はず、復た明師の質問すべきなし。近来老■しきりに至り益々惑を解く識見の力無く、箪思すること三十余年といえども、然れども独り惑を抱きて未だ啓明する能はず、以て終身の■と為す。此に於て姑らく疑惑する所を記して以て識者の開示を望むのみ」

と述べているのを見ると、既に壮年の頃、宋学に対する懐疑が彼にきざしたらしい。しかし謙虚にして慎重な益軒はみだりに異を立て門戸を張ることを好まず、その疑惑は胸一つにおさめられた。(中略)しかし一端彼の心の上に滴り落ちた懐疑のインクはもはや抹消すべくもなかった。あくまで程朱を尊信し古学派を忌みつつも、他方古学派の宋学批判に惹かれ行く自分をどうすることもできなかったのである。かくして正徳二年の「自娯集」、同四年の「慎思録」を通じて次第に高まって行った反朱子学的傾向はついに「大疑録」となって爆発した。

(『丸山真男集』第一巻 184-185頁 近世儒教の発展における徂徠学の影響並にその国学との関連)

(朱子学的世界観と近世封建社会の)ギャップは封建社会の実質的な推移と共にいよいよ露わとなる。(中略)ここに於て行路は分れる。朱子学的世界観を固持して、それとは相容れぬ一切の経験的現実を断固として斥ける行き方(この最も徹底せるは佐藤直方)、朱子学的理論内容を多少とも経験的現実にひきつけて解釈し、両者の調和雫妥協をはかる行き方(代表は貝原益軒)、経験的現実をどこまでも尊重し、そのためには朱子学という如き一つの学派に必ずしも拘泥せざる行き方(代表、熊沢蕃山)、さらに進んで、朱子学に対立する立場を積極的に樹立する行き方(古学派)。大ざっぱに分ければこのようになろう。

(『日本政治思想史講義録』1948年 117-119頁 第八章 近世儒教の興隆とその社会的基礎)

校正 本草綱目
金龍寺(福岡市中央区)
益軒の墓と銅像がある