葉 隠




武士道といふは、死ぬ事と見付けたり

山本常朝の墓 (龍雲寺)

著者は佐賀鍋島藩士山本常朝(1659−1719)。大道寺友山の『武道初心集』と共に武道書の双璧をなす。主君鍋島光茂の死を悼んで隠棲した常朝が、田代陣基に鍋島家の家臣としての覚悟、古今の士風を説いた閑談を、陣基が七年かかって筆録しあげたもの。元禄時代以来の士風頽廃を憂い、鍋島家本来の士風を振興する事を目的として物語られた。


かつての戦国華やかなりし武士道を無限のノスタルジアを含めて回想した山本常朝の『葉隠』を見ても(中略)その強調する主君への純粋蕪雑な忠誠と「献身」が、けっして権威への消極的な恭順ではなくて、むしろ「諸人這い廻りおぢ畏れ、御尤もとばかり申す」卑屈な役人根性や「出る日の方へ」向く大勢順応主義に対して、吐き気をもよおすばかりの嫌悪感に裏うちされ、学問と教養のスタティックな享受にたえず抵抗する行動的エネルギ−を内包し、中庸でなくて「過度」、謙譲でなくて「大高慢」、− 要するに「気力も器量も入らず候。一口に申さば、御家を一人して担ひ申す志出来申す迄に候。同じ人間が誰に劣り申すべきや。惣じて修行は大高慢にてなければ役に立たず候」というような非合理的主体性とでもいうべきエ−トスに貫かれていることを看過してはならないだろう。

ここでは御家の「安泰」は既成の「和」の維持ではなくて、行動の目標となる。こうした側面はとくに集団の危機感に触発された際に奔騰する。忠誠が真摯で熱烈であるほど、かえって「分限」をそれぞれまもる形での静態的な忠誠と、緊急の非常事態に際して分をこえて「お家」のために奮闘するダイナミックな忠誠とが、生身をひきさくような相克をひとりの魂のなかにまきおこすのである。

(『忠誠と反逆』 筑摩書房 19頁 )


『葉隠』の非合理的な忠誠が逆説的に強烈な自我の能動性をはらんでいたのとちょうど裏腹の関係で、福沢はむしろ非合理的な「士魂」のエネルギ−に合理的価値の実現を託した。「本来忠節も存ぜざる者は遂に逆意これなく候」というのが『葉隠』のダイナミズムであったとするならば、逆に、謀叛もできないような「無気無力」なる人民に本当のネ−ションへの忠誠を期待できるだろうかというのが、幕末以後十余年のあわただしい人心の推移を見た福沢の心底に渦まく「問題」だったのである。

(『忠誠と反逆』 筑摩書房 44頁 )

岩波文庫
葉隠 (上)(中)(下)
和辻哲郎・古川哲史 校定
500円・500円・560円
葉隠 古写本