新井白石


1657−1725
明暦3年−享保10年

幼名は伝蔵(傳藏)、名は君美、字は済美、通称は与五郎、のち勘解由。父は久留里藩(二万二千石)の目付役新井正済。従五位下(明治に至り正四位を贈られる)。明暦大火の直後、江戸神田の藩主土屋利直の仮屋で生れる。土屋家に仕え、のち利直が亡くなり子の頼直が継ぐと父子ともに辞職、江戸に出て浪人。大老堀田正俊(下総古河城主)に仕えるが2年で正俊が稲葉正休に斬られて亡くなる。

三○歳のころ木下順庵に朱子学を学び、三五歳で堀田家を致仕。のち順庵の推挙で1693年(元禄6)甲府藩主徳川綱豊に仕える。1709年(宝永6)綱豊が六代将軍家宣になり、側用人間部詮房とともに幕政を補佐。武蔵国埼玉郡に五百石を賜り、のち相摸国に五百石を加贈。生類憐の令など将軍綱吉の時の弊政の廃止、朝鮮使節の簡略化、幣制の改革、外国貿易の制限、閑院宮家の創立など多方面の制度改革を執行。家宣の死後、詮房とともに七代将軍家継を補佐。家継の死後、1716年(享保元)吉宗が将軍となるとともに致仕。

著書は自伝『折たく柴の記』『西洋紀聞』『読史余論』『采覧異言』など。


白石もまた六代家宣言、七代家継のブレイン・トラストとして、元禄−享保の封建社会の動揺を身を以て体験し、その波及する結果を真摯に凝視した一人として、徂徠とその深刻な危機意識を共通にしていた。

しかし白石は反省的な思想家であるよりもまず実践的な政治家であった。学者としての白石も個別的=具体的な事物への感覚にはめぐまれていたが、深い論理的思索はその本領ではなかった。畢竟彼は思想家たるより、むしろ歴史家であった。かくて彼の政治思想は彼の政治的実践と不可分に結合されており、それ故に自ずから断片的となり、従ってまた封建社会の補強問題についても大規模にして徹底した制度的改革の提示に至り得ずして部分的な改良主義に終わっている。

白石が示したヨ−ロッパ文化に対する理解には驚嘆すべきものがあり、これは白石の人格が単なる封建的政治家たる枠をこえて普遍的な人間性に迫っていることを証示している。『西洋紀聞』に誌された白石とシドチの問答は実に興味津々たるもので鎖国以来、全く相互の交渉を絶たれた東と西の世界観は、ここに一世紀ぶりに、東西を代表するにふさわしい両人格を通じて接触し、燦然たる火花を散らすのである。シドチの説明を白石がかくまで自家薬籠中のものとなしえたのは、白石の非凡な頭脳と同時に、豊かで自由な感受性を物語っている。

白石はキリスト教に対し当時にあっては高度の理解を示したとはいえ、その具体的批判に至っては、殆ど従来の伝統的な批判から立ち出でていない(中略)。「彼方の学のごときは、ただ其形と器とに精しき事を、所謂形而下なるもののみを知りて、形而上なるものは、いまだあづかり聞かず」(西洋紀聞、下)という所に終わっている。いかに包容性と流動性に富んだ彼の頭脳も、時代の一般的雰囲気から完全に自由になることはできなかったのである。ともあれ、この西洋→形而下、東洋→形而上という批判の図式は、その後長くヨ−ロッパ文化批判のひながたとなった意味で重要である。

(『日本政治思想史講義録』1948年 241-245頁 付章一 中期朱子学の景況)

『折たく柴の記』の写本
白石先生渋谷水聲五絶