雨森芳洲


1668−1755
寛文8−宝暦5

近江国雨森に生まれる。一七歳の頃江戸に上り木下順庵に入門、英才を賞される。1689年、二六歳のとき順庵の推薦によって対馬藩主の下に出仕。さらに三六歳のとき釜山に渡り、朝鮮の歴史・地理・風俗・人情とともに朝鮮語を学び、初めての日朝会話集『交隣須知』を、またハングル・カタカナを併記したユニ−クな朝鮮語の入門書『全一道人』を著す。 第8次・第9次の通信使来訪時には一行とともに二度、対馬−江戸を往復。豊かな外交経験をもとに六一歳で『交隣提醒』を書く。この中に芳洲の先進的な国際感覚・人間性が改めて見直され高く評価される多くの言葉がある。 国と国との交わりは「互いに欺かず争わず」「誠信の交わり」ではなくてはならぬこと、「朝鮮との交際については第一に人情・社会のありようを知ることが大切」など。

その学問においては徳行を重んじて、朱子学的名分論を強調。晩年は和歌を志し、八○歳を過ぎて一万首を製作。


雨森芳洲が次の如く社会的分業から封建的社会関係を基礎づけているのも、職分思想の一つの典型的表現である。「人に四等あり。曰く士農工商。士以上は心を労し、農以下は力を労す。心を労する者は上に在り。力を労する者は下に在り。(橘窓茶話)。これは『孟子』に直接由来するものの考えであった。

(『日本政治思想史講義録』1948年 104頁 第四章 初期朱子学者の政治思想)


そうした武士支配の理由づけにしても、朱子学者雨森芳洲の言葉に典型的に表現されている如く、「人に四等あり。曰く士農工商。士以上は心を労し、農以下は力を労す。心を労する者は上に在り。力を労する者は下に在り。心を労する者は心広く志大にして慮遠し、農以下は力を労して自ら保つのみ。顛倒すれば則ち天下小にしては不平、大にしては乱る」(橘窓茶話、巻上)として儒教経書に典拠が求められた。

この言葉が孟子の「或は心を労し或は力を労す。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる人に治めらるる者は人を食ひ、人を治むる者は人に食はる。天下の通義なり。」(『孟子』勝又公章句上)に基づいていることはいうまでもない。

(『丸山真男集 第一巻』 133頁 139頁 近世儒教における徂徠学の特質並にその国学との関連)

雨森芳洲庵
滋賀県伊賀郡高月町