伊藤仁斎


1627−1705
寛永4年−宝永4年

京都に材木商長沢屋七右衛門長勝の子として生まれる。母は連歌師法眼里村玄仲の娘那倍名は維貞。貧困の中で苦学して朱子学を学ぶが、孔孟の古義に即くべく古義学を主張。京都の堀川に家塾古義堂を開き、門弟三千人を集める。終生大名のもとに仕えることなく、学界の大勢力を形成した。後代の注を避けて、専ら孔孟の古典によって道義を明らかにし、封建道徳を説いた。

著書に『論語古義』『語孟字義』『童子問』『仁斎日札』『古学先生文集』


経験的な人間性として「気質の性」に第一義を付与するとすれば、「天理を存して人欲を滅す」という朱子学は、人間性そのものを否定するものにほかならぬ。人間の自然的欲望が、今や勃然として復権を要求するであろう。人欲に対するトレランスの要請は、朱子学の厳格主義に対する強い非難を放つに至る。益軒や仁斎の如き典型的な儒学者で、儒教道徳の権化と考えられる人々すら、このような朱子学的禁欲主義に対しては至るところ批判の声を挙げている。(中略)仁斎も、外物をただそれ自身として憎むの心は、仏教、特に禅の考えであって、儒教道徳ではなく、「いやしくも礼儀の以って之を裁く有れば、情は即ちこれ義、何の悪むことか之有らん」(童子問)とし、徒らに人欲を滅却する如きは、逆に人間の感覚的存在そのものを否定してしまうものであるとする。

赤貧洗うが如き生涯を送ったといわれる仁斎は、言うこと多くして実践を伴わなかった学者の多い当代に於ていかに例外的な儒教道徳の実践者であったかは、かの高踏的な徂徠すら「熊沢の知、伊藤の行、之に加ふるに我の学を以ってせば即ち東海始めて一聖人を出さん」としたことからもわかる。このような仁斎に於て。上述の如き批判的態度が表れているということが、まさに注目に値するのである。

例えば、朱子の歴史書のなかに見られる如き、歴史的人物に対する峻厳無比な道徳的批判の態度に内面的反発を感じ、「予、通鑑纂要等の書を観るに、其の人物を評■する、善を善とし悪を悪として一毫も仮借せず、巌なりと請ひ可し。然れども断決深刻にして古今に全人無し。殆ど申韓刑名の気象ありて聖人涵谷の意味無し。己を持する甚だ堅く、人を責むる甚だ深し。肺腑に浸淫し骨髄の透■し、卒に刻薄の流と為る。専ら理の字を主張するの弊、一に此に至る。悲しいかな」(童子問)として、その寛容さを衝いている。この点、まさに山崎闇斎と対蹠的な考え方である。

(『日本政治思想史講義録』1948 125-126頁 第五章 朱子学的世界像の分解 )

古義堂
京都市 堀川
『論語古義』
天理図書館蔵
伊藤仁斎肖像
愛知教育大学図書館蔵