浅見絅斎


1652−1711
承応1年−正徳1年

近江国高島郡太田村の生まれ。初名は順良のち安正、通称は重次郎、号は絅斎・望楠楼。はじめ京都で医者をしていたが、浅見氏を継承、二八歳で山崎闇斎の門に入る。崎門三傑の一人といわれたが、師の神道説に服せず破門される。南朝正統論を述べる。中国の忠孝義烈の士の文章を集めた『靖献遺言』を著す。

覇者の地であるとして江戸を嫌い、終生足を踏み入れようとしなかった。神道に傾斜した絅斎の学流は、宝暦の勤王事件の首謀者竹内式部、安政の勤王志士の首領梅田雲浜へと連なり、幕末の尊王の志士たちに大きな影響を与える。没後二百年の明治四二年に従四位が贈位、記念行事が挙行される。


果たせるかな、闇斎の晩年に至って「龍異最至」(先達遺事)といわれるほど闇斎が目をかけた佐藤直方と浅見 絅斎の二人が、師から破門もしくは準絶門の処置を受けるという事件が発生した。(中略)そのうえ、当の直方と絅との相互関係にしても、「初其交如兄弟」といわれるほど親交を結んでいたのが、晩年には論争にも第三者の仲介を要するほど、事実上の絶交に立ち到った。

(中略)「林家之阿世、崎門之絶交」という言葉がある。(中略)これほど江戸時代朱子学を代表する二つの在り方を寸鉄の言を以って表現したものはなかろう。要するに、崎門を他の学派から区別せしめた排他性と閉鎖性は、まさに崎門の内部においても機能していたわけである。

(『闇斎学と闇斎学派』丸山真男集 第十一巻 239-241頁))

『本然気質性講説』
無窮会図書館蔵

闇斎の講義録
筆記者は仙台藩士遊左木斎