野中兼山

1615−1663
元和元年−寛文3年

土佐藩の家老の家に生まれる。通称伝右衛門。家督を継いで二代目藩主山内忠義に仕え、二七年間家老を勤める。その間、藩財政の確立と改革に敏腕をふるい、農業振興をはじめ殖産興業政策を強行した。特に郷士制度創始と関連する大規模な新田開発事業は、総面積二七○○町歩に及び、そのために藩内の領民の辛苦も甚だ激しかった。さらに、あまりに厳直峻烈な性分と行政手腕ゆえに敵も多く、領民の怨嗟の声を反対派三家老に政治利用され、1963年遂に失脚するに至った。失脚後三ヶ月で死去。

山崎闇斎と共に谷時中に朱子学を学び、南学興隆に力を注ぐ。


兼山遺族幽閉地・碑
高知県宿毛市

兼山死後、遺児八名は罪人として宿毛に流され、
男系が絶えるまで四○年間幽閉される