室 鳩巣

1658−1734
万治元年−享保19年



武蔵国に医者の子として生れる。江戸前期の儒学者。名は直清、字は師礼、通称は新助。武蔵国に医者の子として生れる。1672年(寛文12)加賀藩主前田綱紀に仕え、京都遊学時代木下順庵に入門し、また闇斎学派の羽黒養潜からも学ぶ。1711年(正徳元)新井白石によって幕府の儒員に推挙され、徳川家宣・家継・吉宗の三代の将軍に仕え、吉宗の側近として享保の改革を輔佐。陽明学派や古学派の台頭が著しい中で官学としての朱子学を維持。

『駿台雑話』は風趣ある国文の随筆集。


鳩巣は、古学派の勃興によって守勢に立った朱子学のために禦侮の任にあたることにその学問的生涯をささげた。彼はとうとうたる反朱子学的潮流のさなかにあって、「天地の道は尭舜の道なり、尭舜の道は孔孟の道なり、孔孟の道は程朱の道なり」(駿台雑話、巻一)として、程朱の正統性を固く信じて一歩も動かず、堀河■園両学派の程朱攻撃に不屈の闘志を以って反発した。(中略)しかし聡明な彼は、古学派の登場がある社会的必然性を背後に担っていること、その意味に於て時代の体勢のますます彼に非なるべきことを見透していた。

鳩巣はかく頑強に朱子学に立てこもったとはいえ、彼は従来の朱子学派のなかにこうした反流を激成せしめる弊害のあることも認識していた。(中略)そうして鳩巣は闇斎派のこの傾向を、理一を知って分株を知らぬものと評した。鳩巣によれば、本来の朱子学はこの二面が完全に調和しているべきものなのである。鳩巣の朱子学観の当否は問わずにおこう。むしろ我々に興味のあるのは、鳩巣がここで闇斎朱子学に欠けているとなす「分株」的側面に於てこそまさに近世思想史の発展が見られたこと、古学派が展開させたのはもっぱらこの契機であった、ということである。時流に全く超然としていたかに見える鳩巣もやはり近世初期ではなく、元禄→享保時代の朱子学者だったのである。

(『日本政治思想史講義録』1948年 236-238頁 付章一 中期朱子学派の景況)