賀茂真淵


1697−1769
元禄10年−明和6年

遠江国浜松在伊場村の賀茂神宮の神主岡部家に生まれる。上京して荷田春満に入門、師の死に遭って帰郷。1738年江戸に出て万葉歌風を門人に教えはじめた。真淵の学問は、契沖・春満の学風をうけて万葉集中心の注釈的研究の上に立ち、万葉歌風とその精神を把握し、古代精神の特質、古道の精髄を明らかにするところにあった。真淵が明らかにした古典精神とは、ますらおぶりであり、それは中古文学のたおやめぶりに比して、力強い精神であると共に、真情の率直な表現をもつ精神であった。

『文意考』『五意考』『冠辞考』『神楽考』『源氏物語新釈』など著書多数。


さて、われわれは徂徠学と国学との関連を一まず人的なそれから述べよう。賀茂真淵は太宰春台の弟子渡辺蒙庵に漢学を学んだ。しかしより重要なのは真淵と服部南郭との親交である。これについて村田春海門下の国学者清水浜臣は「翁(県居翁即ち真淵のこと−筆者)東都に下られてより、南郭先生といとしたしくむつびかわされつつ、詩を先生に学ばれしに、先生は国学を翁にとはれて、互によき学びがたきにおはせしかば、先生の墓所も此寺なるちなみに、翁も墓地をここにしめおかれしとぞ」(泊■筆話)と語っている。ここでわれわれは南郭が徂徠学の私的側面の継承者であることを、後述する所との関係上とくに念頭にとどめおく必要がある。

(『丸山真男集』第一巻 267頁 近世儒教における徂徠学の特質並にその国学との関連)

吾々が封建的支配関係に関連して、国学の主要思想家から聞きうる直接の言葉は悉く是れ現存秩序の無条件的肯定乃至は礼讃に終わっている。「天地のまにまに丸く平らか」(国意考)に治まった我国の上代を熱烈に讃美し、そうした古えの道が「中つ代よりことさやぐ国人のつくれるこまかなるまつりごと」(賀茂翁家集、巻之三)、即ち儒教的制度の浸潤によって見失われたことを痛歎した真淵に於て、徳川氏の政治的支配は、「下野や神のしづめしふたら山ふたたびとだに御世はうごかじ」(同、巻之二)とされ、「大将軍公の治めまつりごちたまふ御世は。天雲のむか伏すきはみ。谷ぐくのさわたるあひだもいちはやぶる事なく、うとぶるものあらせず。・・・・此すえの御いのちは。ときはにかきはに。世の長の御いのちといふまでに。松に竹に万代をかるる事なく。さかえおはまして。御別の家々もいや広にいよ遠にまもらひたまひ。さきはひたまへ」(同、巻之四)と称えられた。

(『丸山真男集』第二巻 75頁 近世日本政治思想における「自然」と「作為」)