服部南郭


1683−1759
天和3年−宝暦9年

京都に生まれる。初名は元孝のち元喬、字は子遷、通称は小右衛門、画号は周雪・観翁。京都生れ。1696年(元禄9)江戸に出て、柳沢吉保に仕えたが、1716年致仕。荻生徂徠の高弟。風流絵画の人で和歌絵画をよくし、詩文の名声高く、文芸の士の欽慕を集めた。徂徠古文辞学の詩文の面の代表者。唐詩選を刊行して普及させた。江村北海は『日本詩史』において言う。「蓋徂徠没して後、物門の学、分れて二と為る。経義は春台を推し、詩文は南郭を推す」。

主著に『南郭先生文集』『大東世話』など。


■園門下いかに多氏済々とはいえ、治国平天下の学より故事来歴の考証までを一身に兼ねる人物はもはや求めるべくもない。かくて徂徠学の分裂はまず人格的な分裂として表面化したのである。徂徠学の公的な側面と私的な側面は■園門下において夫々異なった担い手を見出すことになった。前者を代表するものに太宰春台・山県周南があり、之に対して服部南郭・安藤東野・平野金華らはいずれも私的側面の継承者であった。後世、角田九華が、「徂徠没するに及び、その門分れて二と為る。詩文は服部南郭を推し、経術は春台を推す」(近世叢語、巻二)と語っているのはこの間の事情を指すものにほかならぬ。(中略)けだし彼等は夫々 − エピゴ−ネンにふさわしく − 意識的にか無意識的にか己れの継授した面を徂徠学それ自体として絶対化することによって、各自の領域を無視し同じ面において競合するに至るからである。

この食い違いは既に春台と南郭において明白に現れている。一方において春台が古文辞の弄びを「糞雑衣」と罵り、「聖人ノ道ハ、天下国家ヲ治ルヨリ外ニハ所用ナシ、・・・是捨テ学バズシテ、徒ニ詩文著述ヲ事トシテ一生を過ス者ハ真ノ学者ニ非ズ、琴碁書画等ノ曲芸ノ輩ニ異ナルコトナシ」(経済録、巻一)と痛論しているとき、他方に於いて南郭は、近世叢語に、「其学博しといえども深く自ら韜晦し未だかつて師儒の重きを挟まず、居恒、雅致を以て自ら居る。人或いは時事を問へば笑って曰く、文士迂闊にして事務を知らざるに■々として空談自ら喜ぶ、何ぞ■人道を謀るに異ならん、故に予は敢てせず、と」(同、巻三」)とある様に政治的現実から韜晦して、ひたすら詩文を楽み、文辞の研究に没頭していたのである。しかも春台や周南のごとく経学を継承しこれを深化して行った者は比較的少数であって、■園の大勢は南郭の傾向を追って行った。

古文辞学や詩文にしてもいまだ南郭においては溌剌たる創造性を失わず、「後世文辞を語れば必ず先づ南郭を称す」(近世叢語、巻三)といわれるまでの域に達していたが、更に後のエピゴ−ネンに至っては、本来、徂徠学の単なる階程にすぎなかった李■鱗・王元美の文辞を盲目的に模倣するにとどまり、学問的にも芸術的にも低調の一途を辿った。

(『丸山真男集』第一巻 260-261頁 近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連)

唐詩訓解
服部南郭書入本