佐藤信淵


1769−1850
明和6年−嘉永3年

出羽国雄勝郡馬音内に生まれる。字は元海、通称百輔。佐藤家は代々鉱山農業の学問を研究。一六歳のとき父に死別して江戸に出、蘭学、儒学、天文地理暦算測量を学ぶ。諸方を遍歴して見聞を広め、諸藩に出入りして説を講じる。上総大豆谷に閑居して著述をしていたが、再び江戸に出て幕府の神道方吉川源十郎に入門し、さらに平田篤胤に就いて学ぶ。国学の古道説に西洋天文学を交えた宇宙論を哲学的基礎として、農政経済論を説き、空想的な社会改革論を展開した。

『農政本論』『経済要録』『復古法』『防海策』など。


ただ後半期で注意すべきは、徂徠に於て提起されたような封建制建て直しのための制度的改革の提唱が、ヨ−ロッパの中央集権国家の構想にヒントを得て、本多利明、佐藤信淵等によって更に大規模な形でなされたことである。こうした制度的変革の方向はいずれも封建的政治力の多元性を克服して、強大中央集権的政府の樹立を目指す限り、多かれ少なかれ絶対主義への傾斜を示すのであり、維新以後の日本の歴史的発展の思想的な先駆しては、尊王論、尊王攘夷論等よりは、遥かに重要な意味を有する。特に規模の大なるものは佐藤信淵で、哲学的には大なるものなしとはいえ、制度的には一種の経済統制国家を目指した一種のユ−トピア国家の広壮な構想を有した。「世界を混同する」というそのユ−トピア構想は、日本の対外的危機に根ざした劣等感情の倒錯した誇大妄想ともいえる。

(『日本政治思想史講義録』1948年 205-206頁 第九章 近世後半期の社会及び思想の大勢)