本居宣長

1730−1801
享保15年−享和1年

伊勢松阪の木綿問屋小津家に生まれる。二二歳で家業を継ぐが、1752年に上京、堀景山に儒学を学ぶ。1757年松阪に帰郷して医業を開業。63年賀茂真淵の門人となる。1786年『古事記伝』の神代巻を完成。1792年紀州藩主の招きで国学を講じる。契中の文献学、賀茂真淵の古道学を継承して国学を大成させた。

『玉の小櫛』『玉くしげ』『直毘霊』など。


宣長はこのように流動する心、換言すれば物に触れて感動する精神をば「もののあはれ」と」呼んだ。もののあはれは人間の魂の元も純粋な姿態であるが故に、人間をその如実の相に於て捉えんとする文学にとって最高の価値基準でなければならぬ。かくて宣長は文学芸術の領域にこれと異なった基準、とくに道徳的なそれを導入することを激しく拒否したのである。これが有名な「源氏物語玉の小櫛」現れた「芸術のための芸術」である。

(『日本政治思想史講義』1948 213頁 第十章 国学思想の発展 第二節)

からごころによる統治がいかなるものかは支那の歴史的現実が最もよく示している。(中略)支那は幾たびも易姓革命を経験し、「ただ人もたちまち王になり、王もたちまちただ人になり」「国を取むと謀りて、えとらざる者をば、賊といひて賤しめにくみ、取得たる者をば、聖人といひて尊み仰ぐ」(直毘霊)という如き結果に陥る。そうして宣長によれば、、儒教的政治理念は実に政治的君主としての聖人が自己のかかる非行を美化し、隠蔽せんがために作為したる教説にほかならぬ。さきに聖人の作為なるが故に絶対視された儒教はここにまさしく聖人の作為なるが故に反自然的なものとして拒否されるに至ったのである。一定の理論が実在の歪曲ないし隠蔽を目的とすうるという虚偽意識の観点から儒教の社会的役割を暴露した点において、宣長の儒教批判は、本来の意味でのイデオロギ−批判ということができる。

日本的政治の根本は神勅によって万世一系の天皇が統治することに存する。而してこれは宣長によれば、単なる理念ではなく、歴史的に実証されたる、また日々実証されつつある事実である。上代日本には儒教のような整然たる政治思想がない。しかし宣長によれば、理念は事実がそれに背反する限りにおいて理念である。支那的政治理念の美事な形成は、逆に支那の政治現実の乱脈の産物であり、日本においてそうした観念的形成が欠けているのは、現実がよく治まっていることのなによりの証示であった。

「皇国は神代より君臣の分早く定まりて、君は本より真に貴し、その貴きは徳によらず、もはら種によれる事にて、下にいかほど徳ある人あれ共、かはる事あたはざれば、万々年の末の代までも、君臣の位動くことなく厳然たり。」(くず花、下巻)

しかしその根底には、「すべて下たる者はよくてもあしくても、その時々の上の掟のままに従ひ行ふぞ即古の道の意には有りける」(うひ山ふみ)、従って「今の世は今のみのりを畏みてけしきおこなひ行ふなゆめ」(玉鉾百首)として、「道をおこなふことは君とある人のつとめ也、物まなぶ者のわざにはあらず、もの学ぶ者は道を考へ尋ぬるぞつとめなりける」(玉かつま)として自らの任務を、一切の実践的行為から峻別された純粋な真理の探究に限定し、現実の政治形態に対して全く受動的な服従の態度をとり、「やすくにのやすらけき世に生れ遇ひて安けくてあれば物思ひもなし」(百鉾百首)として穏しく楽しく私生活を暮そうとする楽天的、非政治的な人生観が横たわっていた。これはもとより一面、宣長自身の性格にも由来するが、他面、国学思潮の系列を終始規定した色彩であった。

(『日本政治思想史講義』1948 214-218頁 第十章 国学思想の発展 第三節)

本居宣長旧宅鈴屋 鈴屋内部
鈴屋の掛け軸 本居宣長墓