林 羅山


1583−1657
天正11年−明暦3年

江戸前期の漢学者(朱子学派)。名は忠・信勝、通称は又三郎、のち剃髪して道春、字は子信、別号は羅浮山・浮山・羅洞・長胡・瓢庵・尊経堂・梅花村・夕顔庵。京都四条新町に富裕な町人の子として生れる。子は鵞峰、孫は鳳岡。一三歳で建仁寺に入り、二二歳で藤原惺窩の門下となる。1605年(慶長10)徳川家康に仕え、以後第4代将軍家綱まで侍講。1630(寛永7)上野忍ヶ岡に宅地を賜り、私塾聖堂(のち弘文館)を創建。崇伝とともに豊臣家滅亡を策する。


羅山に至っては惺窩以上に純粋な朱子学者であるから、その言説は全く朱子の忠実な紹介を出でない。例えば理と気については、

「夫天地ヒラケザルサキモ、開ケテ後モ、イツモ常ニアル理ヲ大極ト名ヅク、此大極ウゴイテ陽ヲ生ジ、静ニシテ陰ヲ生ズ。此陰陽ハ元一気ナレ共、ワカレテ二ツとナル、五行トハ木火土金水也」(理気弁)

といい、人性論において、

「其理スナハチ人ノ形ニソナハリテ、心ニアルモノヲ天命ノ性トナヅク、此性ハ道理ノ異名ニテ、ウノ毛ノサキホドモアシキコトナシ」「人ノ性ハ元ヨリ善ナルニ、何トテ又悪ハアルゾト云ニ、タトヘバ性ハ水ノゴトシ、清キモノ也、奇麗ナルモニ入レバスナハチ清シ、汚タルモノニ入レバスナハチキタナシ・・・・気ハ性ノ入レモノナリ・・・・故ニ性モ気ノウケヨウニヨリテ、根本善ナレドモ、形ニヲホハレ欲ニヘダテラレテ心ヲクラマス也」(同上)

といい、ただ朱子哲学の平易な解説にとどまる。

(『丸山真男集』第一巻 157-158頁 近世儒教における徂徠の特質並にその国学との関連)

修身斉家治国平天下の論理的必然的連関を説き、政治を究極的に個人修養の問題に解消してしまう朱子学的ば立場に於いては、固有の厳密な意味に於ける政治思想というべきものは存立の余地がない。そこには、為政者が心を正しくすれば自ら統治は成就するという楽観的な精神主義が支配的となる。その反面は政治に於ける客観的制度の軽視である。(中略)羅山が、「政を為すに徳を以ってすれば、即ち言ふことなくして四海化して行はる」とし、「政と云ひ、徳と云ふ。あに外に求めんや。之を胸臆に求めて万国服す」(文集第一、二六六頁)といっているのはその典型的な例である。

(『日本政治思想史講義録』1948年 98-99頁 第四章 初期朱子学者の政治思想)

湯島聖堂