頼 山陽


1780−1832
安永9年−天保3年

朱子学者頼春水の子として大阪江戸堀で生まれ、のち安芸に移る。頼未来三郎の父。江戸で尾藤二洲に師事し、朱子学・国学を学ぶ。二一歳のとき広島藩を脱藩し監禁。のち京都に出て『日本外史』を書き、松平定信に献じた。その内容は源平二氏より徳川氏に及び、政権が朝廷から武門に移った由来や南朝正統論などの勤王論を熱情的な筆致で綴ったものであり、幕末尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

著書は『日本外史』の他『日本政記』『日本楽府』など。


けれども山陽の分析が当面もっとも興味を惹くのは、彼がとくに封建的主従関係に目を据えて、いわば反逆の政治学 − もちろん主君の立場から見た − を展開している点である。 (中略)

こうした山陽の所論にはマキアヴェルリ Machavelli を憶い出させるような心理的アプロ−チがあるが、それは同時に「御恩」と「奉公」への忠誠ではなくて、どこまでもンパ−スナルな主従の情誼を基礎としていることの認識から発しているのである。明智光秀の反逆もまた基本的に同じ角度から説明される。(中略)このように恩賞の「跡」よりも「意」に重点をおいた分析は、前述のような忠誠観の分析のなかでは一見するほど「精神主義的」でなくて、存外にリアリスティックなのである。

一般に山陽の史論の魅力と同時に問題性は、一方での天道論と大義名分論に立つ規範主義的判断が、他方における歴史的興亡の因果分析と、縦横に交差している点にある。

(『丸山真男集』第八巻 183-186頁 忠誠と反逆 )

「湊川歌」
京都大学付属図書館
史跡「頼山陽居室」
広島市中区袋町
史跡 頼山陽生誕地
大阪市西区江戸堀一丁目