藤原惺窩


1561−1619
永禄4年−元和5年

名は粛、字は斂夫、別号は北肉山人・妙寿院。藤原定家の一二代の孫。 藤原惺窩は細川荘(三木市細川町)の荘園を領した冷泉為純の第三子 として生まれたが、神童と呼ばれ、幼少のころ播州竜野で剃髪して宗舜となった。一八歳の時、父為純が三木城主別所長治に滅ぼされたが、姫路の書写山に陣していた羽柴秀吉に会い仇討と家名再興を願い出ている。秀吉に「時期到来を待つように」とさとされた宗舜は、京都に上り叔父泉和尚のいる相国寺を訪れ、ここで仏教と儒学を学んだ。

天正八年、三木城は秀吉の手に落ち、同十五年秀吉は天下を平定した。十八年には朝鮮から三人の使者がやってきたが、この時に宗舜に命じて大徳寺で使者との筆話をやらせた。惺窩が仏道を捨て儒学に道を求めたのは、この時からである。学問好きの徳川家康が二千石の大禄で迎えようとしたが、意のままに暮らす楽しさを捨てず一度は固持している。やがて再三の招きに江戸へ出た惺窩は、家康や家臣に進講した。徳川三百年の官学の祖といわれる林羅山も、慶長九年、四四歳の惺窩に入門している。翌十年、家康が京都二条城へ惺窩を招いたが、仕官の意志がないため、羅山を代行させたのが、家康と羅山との結びつきとなった。

惺窩を師と仰いで交わりを結んだ人に、紀州城主の浅野幸長、保津川の土木工事で知られる角倉了意などがある。


藤原惺窩は、戦国時代とくに普遍的な通俗道徳として流行した「天道」という観念を朱子学の理へ結びつけた。「夫れ天道とは理なり。此理天に在りて未だ物に賦せざるを天道といふ。此理人心に具わりて未だ事に応ぜざるを性といふ。性も亦理也」(惺窩文集、巻九、五事之難)。こうした天道と理の等置は近世初期における朱子学の独立と一般化という客観的事態によって可能になった事は勿論であるが、また逆にその一般化のためのきわめて有効な方法であった。そうして朱子学の理における連続性をそのままこの天道は反映する。

(『丸山真男集』第一巻 156頁 近世儒教における徂徠学の特質並にその国学との関連 )

藤原惺窩らは、神道が仏教に根拠づけを求めてきたのに反対して、猛烈な排仏論を展開し、儒家神道を提唱して「神儒一致」を基礎づけようとした。ここでは、神道の中心は儒教と同じく「仁政」とされる。例えば惺窩の尊王論は、「日本の神道も我心を正しくして、万民をあはれみ、慈悲をほどこすを極意とし、 舜の道もこれを極意とするなり」(千代もと草)とするように、日本の歴代天皇に仁政思想がに表れている点にその根拠を求めている。

(『日本政治思想史講義録』1948年 110-111頁 第四章 初期朱子学者の政治思想)