会沢正志斎


1782−1863
天明2年−文久3年

藤田幽谷の青藍舎に入り、1862年幽谷の後を受けて水戸彰考館総裁となる。1829年藩主継嗣問題が紛糾したとき、斎昭を擁立し、斎昭が藩主になった後は藩政改革を輔佐する。1844年斎昭が幕府から咎めを受けた際、藩内で勢力を盛り返した保守・左幕派と対立。改革派内過激派の激論を抑えつつ斎昭赦免に奔走するが、1845年禁固される。1849年復帰して弘道館教授となり藩政の重鎮となるが、安政の大獄後の再度の藩内の紛糾と抗争の中で死去。代表的著作である『新論』は、後期水戸学に尊王攘夷論的な体系づけを行ったもので尊王攘夷論において聖典視された。尊攘運動が激化した晩年は開国論に転向。


後期水戸学に於ける尊皇攘夷論を最も明確に体系づけたのはいう迄もなく会沢正志の「新論」である。文政八年幕府が文政打払令を発した前後の騒然たる情勢を背景として成ったこの書は、国体・形勢・虜情・守■、長計の五項目より成り、国体の尊厳より説き起して、世界情勢と欧米列強の東亜侵略の方策を述べて、之に対する防衛体制を緊急措置と根本対策の両面から論じた頗る組織的な論作で、幕末思想界に驚くべく広汎な影響を与え、一時は幕末志士の聖典視された程であるが、しかもほかならぬこの尊攘論の「聖典」に於て、尊攘論の国民主義思想としての「前期」的性格がまざまざと示顕しているのである。その尊攘論の根底には被支配層に対する根本的不信、庶民層が外国勢力の支援を恃んで封建的支配関係を揺るがすことに対する恐怖感が絶えず流れていた。

もとより水戸学の実践的影響は、はるかに広汎な範囲に浸透し、恰も一切の − 下士的乃至は草莽的立場をも含めた − 尊皇攘夷運動の思想的基礎をなした観を呈した。それは一つには、そこで国体論がはじめて具体的な時務論と結び付けられ、尊皇論と富国強兵論が不可分の一体として力強く説かれたことが、なんといっても時代の冥々の動向に適合していたため、その尊皇論なり富国強兵論なりの具体的内容が問われるより先に、一つの政治的パロ−レ(合言葉)として人心を吸着したからであり、更に一つには水戸学の中心的人格たる斎昭と幕閣との政治的対立関係が(中略)水戸藩が親藩という特殊的地位にあるだけに却って大きく映し出され、恰も幕末の漠然たる現状打破的諸動向の集中的表現の如く看做されることによるのである。

しかしイデオロギ−の系譜を辿るならば、水戸学的意味での尊皇論乃至攘夷論が、尊攘論一般を代表し得たのは精々安政・万延までであって、初期の「打払」的攘夷論が列強との条約締結後はもはや現実から浮上ってしまい、斎昭や正志が晩年開国論に転じた頃から、尊攘論の分化が明瞭となり、本来の水戸学的な立場は例えば薩摩の島津久光などの所論と行動に受継がれて、「激派」尊攘論と次第に鋭い対立を形成するに至るのである。

(『丸山真男集』第二巻 255-259頁 国民主義の「前期的」形成)

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