安藤昌益


生没年未詳


安藤昌益石碑 大館市仁井田

久保田城下(現秋田市)に生まれ、医学・本草学等を修めて南部八戸の医師となり、宝暦年間まで生存、その間、長崎に赴いて海外事情を研究。『自然真営道』100巻93冊とこれを要約した『統道真伝』五巻が生涯の主著。農耕を天然自然の本道として人間生活における基本的重要性を力説、儒仏等の倫理的教説を徹底的に批判して、君主・支配者を耕作農民に寄生する徒食の輩と痛罵、すべての人間が農耕を基礎として平等である「自然世」社会へ帰る事を理想とした。


しかしともかく昌益の畢生の大著『自然真営道』の自筆本が故狩野亨吉の手に入って博士によって紹介されるまで、彼はまったく無名の思想家であった。それは彼の思想があまりにも彼の時代の水準からかけ離れた突飛なもので、当事の人は恐らく狂人の妄想としてしか理解できなかったからであろうし、また何より、昌益自身彼の思想の封建制にとっての恐るべき危険性を知悉していて、その百巻に及ぶ『自然真営道』や『統道真伝』五巻を公刊せず、その行動においても極度に慎重隠密を期したためでもあろう。

昌益の思想体系は自然哲学より、認識論を経て、倫理観より、政治社会哲学に至る膨大なものであり、そこで彼は、儒教・仏教・道教・神道等、凡そ従来知られているあらゆる伝統的思想に対する徹底的な批判と闘争を通じて彼自身の哲学を押し出している。それらの教説は、その間のあらゆる変差にも拘らず、昌益によれば不耕貪食者、すなわち農業生産から遊離した階級が、直接生産者を支配し収取するために作り出したイデオロギ−にほかならぬ。彼は鋭利な眼光を以て一見なんらの現実社会との直接的関連を持たぬ純粋の抽象的思弁のごとく見える所にも至るところイデオロギ−的意味を堀り出して、その社会的役割を暴露していった。

「士は武士なり。君下に武士を立てて衆人直耕の穀産を貪り、若し之れを抗む者あれば武士の大勢を以て之を捕縛す。是れ自然の天下を盗むが故に、他の己れを責めんことを恐れてなり」(中略)かくて、彼の理想社会は、徂徠によって理想化された自給自足的農業社会から更に支配者としての武士を排除した形態にほかならぬ。いわば農本的無政府主義である。

(『日本政治思想史講義録』1948 252-255頁 付章二 安藤昌益)

刊本 『自然真営道』
『統道真伝』原本 『忘れられた思想家』上・下
岩波新書
E.ハ−バ−ト・ノ−マン
660円・660円