横井小楠


1809−1869
文化6年−明治2年

肥後国熊本内坪井に熊本藩士横井大平時直の次男として生まれる。幼名は又雄のち時存、字は子操、通称は平四郎。横井時雄の父、後妻津世子は徳富蘇峰・徳富蘆花(ロカ)の叔母。はじめ藩校時習館に学び、1839年(天保10)藩命により江戸に遊学。藤田東湖・佐藤一斎・幕臣川路聖謨らに交わり、翌年帰国。1847年(弘化4)家塾小楠堂を開き、門弟は実学党と呼ばれる。藩政改革を説き、また実学を唱えて諸国を遊歴。

1855年(安政2)肥後藩内で実学党の上士層と下士層に分裂。下士・豪農層の代表として活動。1858年(安政5)越前福井藩松平慶永に招かれ顧問となり藩の財政改革を指導、開国通商・殖産興業・富国強兵の「国是三論」を説く。1862年(文久2)藩主慶永が政事総裁植に就くと幕政改革・公武合体を推進。しかし「士道忘却」により失脚。

1863年(文久3)士籍を剥奪されて熊本に帰り沼山津に閑居。明治維新後、徴士ついで参与となるが、キリスト教徒・共和主義者を理由に保守派に京都寺町で暗殺。 1928年(昭和3)正三位を追贈。


伝統的な聖人の道に内在する普遍性を固く信じながら、それを時代の状況の中で最大限にまで読みかえることで、将来にとってプラスの意味をひきだそうとした点で、象山に対比せられるべき同時代の思想家といえば横井小楠です。ただし、伝統的思想の新しい読みかえのしかたは、違っておりました。象山の立場が合理的実証的認識方法の普遍性に志向していたとするならば、小楠の「天地公共の道」は主として、人間関係や国際関係を律する正義の普遍性を意味しておりました、「天地の道理」という伝統的範疇は、幕末維新の思想史的過程において一方において近代国際法及び啓蒙的自然法の理解にとって、媒体としての役割を果たしたのですが、もしそうした二側面での媒介をそれぞれに遂行した幕末の指導的な思想家をあげるとすれば、何人もまず指を象山と小楠とに屈するでしょう。

(『丸山真男集』第九巻 227頁 幕末における視座の変革)

小楠殉節地跡
京都市寺町通丸太町下
横井小楠墓
熊本市小楠公園
横井小楠旧居
「四時軒」
熊本市秋津町
小楠寄留宅跡
福井市

熊本市と福井市は
平成六年に小楠の縁で
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