吉田松陰


1830−1859
天保1年−安政6年

長州藩士杉常道(26石)の二男として萩松本村に生まれる。通称寅次郎。叔父吉田家の養子となり、山鹿流軍学の家学を継ぎ一九歳で長州藩の師範役となる。藩主に認められて長崎・江戸などに遊学、脱藩しようとして罪を得、閑居。のち赦されて再び江戸に出、佐久間象山に師事。1854年(安政元年)ペリーの浦賀再来にあたり、象山の意志をついで海外密航を企てたが失敗し、萩の野山獄につながれた。翌年出獄後、叔父玉木文之進の塾を受け継ぎ、1856年(安政3年)自邸内に松下村塾を開き、高杉晋作・久坂玄瑞ら尊王攘夷運動指導者多数を教育。門弟の明治維新に与えた影響は大きい。安政五ヶ国条約調印に反対して攘夷を主唱し下獄、安政の大獄により江戸伝馬町の牢で処刑さる。


そうした「激派」尊攘論を最も早く思想的に代表し、かつ実践したのが吉田松蔭であった。(中略)吉田松蔭のそれが明確に思想的成熟を遂げたのはペリ−来航以後のことであった。松蔭が浦賀に碇泊する米艦を目のあたりに見て後、江戸の藩邸に提出した「将及私言」に於て吾々は既にその具体的結実を見ることが出来る。そこで彼が何より切実な問題としたのは、封建的=地方的な割拠根性を打破して、対外的重大危機 − それはペリ−の再来すべき半年後に迫っていた − に対する防衛を天朝への挙国的な義務たらしめることにあった。(中略)しかし他方(中略)朝幕関係については、この時代の松蔭はいまだ水戸学的な尊皇敬幕論から一歩も出でなかった。

そうしてやがて所謂安政の大獄が開始され、松蔭自身も老中間部詮勝の要撃を策して遂に再度捕えられる前後から、彼の思想はひたすら急進化の一路を辿る。すなわち最初討幕の実行的主体を反幕的諸侯に期待した彼はやがて(中略)それを「草莽の志士」乃至「天下の浪人」に求めるに至った。(中略)松陰の悲痛な現状観察 − 日本の対外的自由独立を双肩に担いうる者は、幕府にも諸侯にも公卿にも、要するに一切の封建的支配層のうちに見出しえないという認識 − の赴くところは自から、「尊攘はとても今の世界を一変せねば出来るものに之なく」(中略)として、現政治社会機構の擁護ではなく逆に「今の世界の一変」に一切の課題を懸けることになる。もとより、松蔭自身、そうした「世界の一変」が具体的に如何なるものであるかについて殆ど知るところなく、ただ来るべき一君万民への方向を漠然と予感しつつ(中略)静かに断罪の地へ赴いた。

(『丸山真男集』第二巻 259-263頁 国民主義の「前期的」形成)