佐久間象山


1811−1864
文化3年−元治1年

信州松代藩に生まれる。通称啓之助。1833年(天保4)江戸に出て佐藤一斎に就いて学ぶ。1837年大塩平八郎の乱の起るを見て「学政意見書」を藩に提出して陽明学の弊害を述べ、朱子学の再興を主張して神田に塾を開く(1839年)。1842年藩主真田幸貫より海防掛を命ぜられるや『海防八策』を建言し、江川太郎左衛門から洋式砲術を学び、蘭学に傾倒した。

1853年ペリ−来航に際し老中阿部正弘あて『急務十事』を建言、翌年門人である吉田松蔭の海外密航未遂事件に連座して罪を問われたが、1862年(文久2)赦され、1864年(元治1)幕命によって上洛、公武合体論と開国論を主張。その開明的言動のため攘夷派志士によって京都で暗殺さる。


象山のいろいろな上書などを見て、今日でも政治の思考方法として学びうるを思われる点の一つは、政治的な状況を好悪を離れて冷徹に認識し、またそのなかに含まれた矛盾した発展方向をつかまえる眼であります。たとえば天保十三年(1842)の松代藩主、真田幸貫への上書でありますが、これは、さきほど申しましたように、彼がまだありきたりの攘夷論にとらわれていた時代の上書として知られております。ところがよく見ると、早くもそこで彼は、政治的な状況に対するリアルな認識方法とはどういうものか、ということの一つのモデルを示しております。

(中略)つまり、今日のことばに翻訳するならば、国家理性に基づく打算というものが近代外交の基礎だ。それは特定国を好きだとかきらいだとか、憎んでいるとかいい感じをもっているとかいう感情の次元とは全く別なのだ。つまり利害の打算が行動の基準であるという、まさに同じ根拠から、正反対の政治行動が生まれる可能性がある − ということになります。このように一見非常に通俗的な攘夷観から出発しながら、そこから権力政治の動態的な論理というものを彼が引き出していることに注目したいと思います。

(『丸山真男集』第九巻 235-237頁 幕末における視座の変革)

なにより、象山の主知的な冷徹なリアリズムと、厳密な分析は、国際政治とか、外交とかいったマクロの政治状況の観察、あるいは長期的な洞察などには遺憾なくその長所を発揮しますが、日常的身辺的な現象となると、具体的な人間関係が大きくものを言う領域なので、いわゆる「人情の機微」に苦手な彼には必ずしも利点とはなりません。しかも天下周知の象山の傲慢不遜の性格が彼の請う行動の現実的効果にしばしばマイナスの作用をしたことは周知のとおりです。 (中略)九年の蟄居が解かれた前後、文久二年から三年にかけ、長州藩、土佐藩、朝廷から、ほとんど相前後して象山招聘の話が出ながら、沙汰止みとなったいきさつには、そういう面があきらかに出ております。結局、元治元年に幕命で京都に上り、これが命とりになるわけです。

(『丸山真男集』第九巻 243-244頁 幕末における視座の変革)


佐久間象山遭難地碑
京都市三条
象山蟄居の家
「高義邸」
象山神社境内
象山関係史料
辞書の草稿
横浜市歴史博物館