太宰春台


1680−1747
延宝8年−延享4年

信濃国飯田に生まれる。名は純、字は徳夫、号は春台・紫芝園。初め但馬国出石の松平忠徳に仕え、辞して京都で朱子学を学び、のち江戸に出て荻生徂徠の門に入る。私塾芝園を開いて教授。徂徠学の経学の方面の代表的継承者。

主著は『経済録』『聖学問答』『弁道書』『春台文集』


規範の客観化を説いた徂徠の主観的な意図は、聖人の道の現実的政治的な意味を強調することにより、その社会的遊離を救済するにあったといえる。ところが、このような規範を人間性から全く疎外することにより、あらたな問題をもたらした。すなわち公的なものと私的なものと、さらには、内的なものと外的なものとが分離され、かつ無連関に併存するという事態が生まれたことがそれである。朱子学的思惟批判の第三の帰結ともいうべき、この公と私の分離併存は、春台において最も露骨に現れている。

「凡聖人ノ道ニハ、人ノ心底ノ害悪ヲ論ズルコト、決シテ無キ事ナリ。聖人ノ教ハ、外ヨリ入ル術ナリ。身ヲ行フニ先王ノ礼ヲ守リ、事ヲ処スルニ先王ノ義ヲ用ヒ、外面ニ君子ノ容儀ヲ具タル者ヲ、君子トス。其ノ人ノ内心ハ如何ト問ハズ」(聖学問答、巻上)。その主張は、例えば、「妻女を見て一念動く、未発の悪なり」とする佐藤直方の立場と完全に逆のものとなる。


儒教の再建と徳川封建制の頑強な再建を心がけた徂徠学は、かく自らの意図と相反する思惟傾向を帰結することになった。そこに徂徠学の悲劇性がある。(中略)それは公的なものと私的なもの(das Offentliche und Privatiche)との分裂からである。(中略)治国平天下の面を承継したのは、主に太宰春台、山県周南であり、文学、歴史、詩歌の方を継いだのは、安藤東野、服部南郭らである。しかも彼らは自らの継承した側面を徂徠学それ自体として絶対化することにより相互に反目ぬするに至った。そして春台の慨嘆にもかかわらず、優位を占めたのは後者、文人墨客的方向であった。かくて危機意識は忘れ去られ、逃避的な文人気質が支配的となり、さしも隆盛を誇った■園学派も急速に思想界におけるヘゲモニ−を失った。

(『日本政治思想史講義録』1948年 110-111頁 第四章 初期朱子学者の政治思想)