山鹿素行


1622−1685
元和8年−貞享2年

陸奥国会津若松で生れる。名は高興・高祐、幼名は佐太郎、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は陰山のち素行。父は貞以。六歳で江戸に出る。1630年(寛永7)林羅山の門人となり朱子学を学ぶ。甲州流軍学者小幡勘兵衛のもとで兵学を修める。1652年赤穂藩主浅野長直に禄高一千石で仕えた。1660年(万治3)赤穂藩を致仕して江戸に帰る。

1665年(寛文5)幕府官学である朱子学の観念論化を批判して『聖教要録』を著し、原典復古主義と実践主義とを唱導。伊藤仁斎と並んで古学派の祖と称される。このため幕府に忌まれ、翌年再び赤穂藩に配流される。1675年(延宝3)許されて江戸に帰る。山鹿流兵学の祖として武家主義の立場をとり、武士階級を擁護。『中朝事実』において独特の日本主義思想を展開。

著書に『聖教要録』『配所残筆』『山鹿語類』『武家事紀』『中朝事実』


朱子学的思惟方法の分解は、まず形而上学の領域において開始された。それは、朱子学における理=太極の実体的超越的性格が漸次後方に退いて、気=陰陽五行が前面に出て来り、理はむしろ気の理として経験的自然に内在する条理という意味に推移したのである。(中略)山鹿素行に於ても、「條理ある、之を理という。事物の間必ず條理あり。條理紊るれば先後本来正しからず。性及天皆理と訓ずるは最も差謬なり」(聖教要録、中)と主張される。

素行も、このようにドグマへの執着からの解放を説いている。換言すれば朱子学に於ける理の気に対する優位は、「本然の性」の「気質の性」に対する絶対的優位として現われていたが、今やアプリオリな「本然の性」を批判の俎上にのせ、むしろ逆に経験的な人間性を実在と認めてそこから出発するという考え方へ変わる。素行によれば、「本然の性」は善悪を以って言うべからざるもので、「未発の善」というも、所詮動くとき、行動するとき初めて善悪の色調が発生するのが実相で、未発それ自体は本来ニュ−トラルなもの、即ち無である。誘引は正しく動くところにある。

..王政より武家政への推移の必然性を最も精細に論及したのは、山鹿素行であった。彼は、しばしば『中朝事実』の著者として、日本主義思想家の祖とせられる。そのこと自体は間違いではない。しかし彼の支那崇拝の排撃と、王政復古の否定とがまさに同一の論理の上に立っていること、つまり「今ここに」の歴史的現実性の尊重から発していることが看過されてはならない。(中略)素行は、歴史的発展が同時に野蛮より文明への発展であり、生活様式の複雑化を必然に伴うとし、これによって、古代の素朴を笑ったり、逆に現代の華美を嘆いたりすることの過誤を指摘した、文明化の大胆な肯定者として、一般に尚古主義的傾向の強い徳川時代の学者の中で異色ある存在である。

(『日本政治思想史講義録』1948年 120-123頁 144頁 第五章 朱子学的世界像の分解)