中江藤樹

1608−1648
慶長3年−慶安元年

近江国高島郡小川村に生れる。名は原、字は惟命、通称は与右衛門、父は吉次、祖父吉長は近江国高島城主加藤家の家臣で、藤樹の養父。加藤家の転封にともない九歳のとき祖父とともに米子に移り、さらに翌年主家の転封により伊予大洲に移る。一一歳で『大学』を読み、独学で朱子学を学び始める。1622(元和8)年祖父が没し一五歳のときに出仕して、郡奉行に任ぜられる。 1634(寛永11)二七歳のとき母への孝養を名目に致仕を願うが許されず脱藩。小川村に帰り、居宅の藤の大樹に因み藤樹と号し朱子学を講じる。三七歳のとき『王陽明全書』を読み、のち王陽明の知行合一・致良知説を唱道。日本の陽明学の祖。身分を越えて農民にも教化し近江聖人と呼ばれる。四一歳で死去。

著書は『翁問答』『論語解』など。門人に熊沢蕃山、淵岡山らがいる。


むろん社会的秩序を自然的先天的なものに基底づける仕方は学者によっても必ずしも一様ではない。(中略)中江藤樹のごときは「大虚のうち、かたちあるほどのものに、精粗のわかちなきものはなし。日と月と星は天の精なり、辰は天の粗なり、物を生ずる山と田畠は地の精なり、峻と不毛の野原は地の粗なり。聖賢君子は人の精なり、愚痴不肖は人の粗なり。・・・・さていづれのものも、その物のうちにて精なるものはその物のかなめとなり主たり。粗はその精にしたがふものなり。しかるによってにんげんの精をうけたる聖賢君子は愚痴不肖の主君として、愚不肖をおさめて教給ふ。粗をうけたる愚不肖は聖賢君子の臣下として聖賢の下知にしたがふ、天命の本然なり。本来君はすくなく臣下はおほきものなれば、主君となるせいけんはすくなく、臣下となる愚不肖はおほきことはりわきまへずして分明なり」(翁問答、上巻之末)として気稟の精粗を以て根拠づけている。

(『丸山真男集』第二巻 14-15頁 近世日本政治思想における「自然」と「作為」)


日本では、陽明学は、朱子学のように系統的な学派的発展を遂げなかった。また初期においては、朱陽の限界(境界)があまりはっきりせず、惺窩も羅山も自由に陽明の見解をとり入れている。近世最初の陽明学者として知られる中江藤樹も、陽明学的色彩を明白にしたのは、ごく晩年であり、彼の予に知られている著作には、朱子学との対立面はほとんど現れていない。(中略)初期の陽明学者の思想はむしろ、上に述べた朱子学的世界像となにほどの隔たりも示していないのである。

(『日本政治思想史講義録』1948年 88頁 第四章 初期朱子学者の政治思想)

中江藤樹画像
京都大学付属図書館蔵
藤樹書院跡
滋賀県安曇川町