藤田東湖

1806−1855
文化3年−安政2年

彰考館総裁藤田幽谷の子として水戸藩に生まれる。藩主斎昭を助けて1832年以来藩政改革を担当、藩財政の立て直しに尽力。のち藩内反対派によって失脚、蟄居処分となったが、黒船渡来の難局を迎えて再び出仕、海防の任に当ったが、安政の江戸大地震によって江戸藩邸内で災死。後期水戸学の中心人物。その尊王攘夷論は具体的政治目標を持ち、また自ら海外渡航を考える識見もあったため、幕末の思想界に大きな影響を与えた。

著書に『弘道館記述義』『回天詩史』『正気歌』『常陸帯』など。


そうしてかくの如き「愚民」観は「新論」のみならず後期水戸学全体に陰に陽に纏い付いた色彩をなしていた。例えば藤田東湖は「回天詩史」に於て古代の尚武の気性が、次第に失われて行った経過を述べ、かつて武を尚ぶの俗が貴族から武家に移ったのは「猶ほ室に亡して堂に存する」ものであるが、「今や承平日久しく、・・・・因循にして察せずという情況に於て、万一其の堂に存する者を失ったならば、忽ち「姦民狡夷将に起りて之を拾ふ者あらんとす。あに寒心せざるべけんや」 − と憂えている。国内に於ける「姦民」は国外からの「猾夷」と同列に於て敵対関係に置かれているのである。

かく検討し来ると、水戸学は上述した諸侯的立場からの尊攘論の理論的定式化と称してもほぼ誤りなかろう。もとより水戸学の実践的影響は、はるかに広汎な範囲に浸透し、恰も一切の − 下士的乃至は草莽的立場をも含めた − 尊皇攘夷運動の思想的基礎をなした観を呈した。

(『丸山真男集 第二巻』 257-258頁 国民主義の「前期的」形成)


しかし、一歩立ち入って見ると、東湖の場合は、象山にくらべてさきに述べたような歴史的文化圏との同一意識からはるかに自由でありません。一つだけ例をあげますと、「夷荻の人、智巧はすぐれぬれど、其教に至りては禽獣の道、人に用ふ可からざるが如く、皇国に用ふ可からず。唯漢土のみ土地も近く、風土も似よりたれば其道通はし用ふべし」(常陸帯、巻之二)。儒教は根本のところ中国の教ではあるが皇国と地理的風土的に近いから皇国の教と通ずる所がある、というわけで、あきらかに「うち」と「そと」感情に基づく東洋との同一化作用が働いております。

(『丸山真男集 第九巻』 221頁 幕末における視座の変革)

藤田東湖と幽谷の墓
水戸市常磐墓地
藤田東湖書
京都大学附属図書館蔵
東湖神社
水戸市