クラウンのコマ−シャルが素晴らしい

トヨタの新型クラウンのCMがいいね。
ああ、あの諏訪内晶子さんをイメ−ジキャラクタ−で使っているやつだろう。新聞広告も見たけれどすごくいいよね。映像も綺麗だし、気品があるし、全体の構成もカメラワ−クも全部いいね。
イギリスの田園風景が出てくる前回の It's a CROWN のCMもなかなか良かったし、去年の新型マ−クIIの Oh my car のCMもとっても良かった。製品と言いCMと言い、何か日本の企業の中でトヨタ一人が頑張っている感じがするね。
本当にそうだね。CMも製品もコンセプチュアルで完成度が高いし、それを作った人間の真摯なメッセ−ジがよく届けられている。去年だったかな、紅葉の禅寺にクルマのオ−ナ−が修行に行く白いマジェスタのCMがあったよね。あれなんか本当に芸術的で美しい作品だったと思うよ。僕はトヨタのCMを見ていると、日本人としての誇りを取り戻す感じがするんだな。映像の美しさやきめ細かさもそうだけど、クラウンの製品としての工業美というものがよく出ている。
一言で言えばこのコマ−シャルは何だろう。
インテリジェンスとロマンティシズムとダンディズムかな。「洗練された美意識」という言葉もピッタリくるね。
できればそこにもう一言、モダニズムと入れて欲しいんだけど。
そうだ。モダニズムへの回帰と言えるね。バブルのあたりからここ十年以上、日本のCMはずっとポストモダン路線一本ヤリだったじゃないか。例の「崩す・外す・落とす」ってやつ。商品の価値とか効用とかと全く無関係に「ははは」と呆けた笑いを誘うだけのCMね、「タンスにゴン」みたいな。今でもまだやっているけれど。
外国人が見ると全然ワケのわからない目茶苦茶なCMなんだけど、それを逆に「日本はポストモダンの先進国だあ」なんて言ってみんなで囃していたんだよね。広告代理店とか社会学者とか、どこかの社会情報研究所とかがさ。
ノ−ネクタイのヘンなブランドのシャツ着た若作りの連中だろう。誰かの真似してよく手首をクルクル回すんだよな。小学生のプ−ルじゃあるまいし。見苦しいからやめて欲しいんだよ、あれ。

トヨタ vs 日産

トヨタのCMを見ていると、CMの原点、日本人が作るCMの原点というべきものがよく見えてくる。自分たちの作っている製品に自信が無ければ、ああいうコマ−シャルは絶対にできないと思うんだ。ところがそれと全く正反対なのが日産だよ。ポストモダン路線も失敗して、完全にハチャメチャ路線になっている。いっぱいタレントを使っているけど、誰がどのクルマの宣伝に出ているのかも混乱してよく分からない。
え−と、桃井かおりと中山美穂が出ているのを見たけれど、セフィ−ロだったかな、ロ−レルだったかな。確かセフィ−ロはラサ−ル石井だったような気もするんだけれど。日産のCMを見ていると、クルマのことなんかどうでもいいという感じだよね。CMのクリエイタ−が一人で自己満足していて、クルマに自信の無い日産がそれに引き摺られている。映像もパシャパシャ変わって見づらいよ。クルマのメ−カ−が作るコマ−シャルじゃないよね。あれは。
安室奈美恵だろ、一色紗絵だろ、今は江角マキコか..。後、誰だ..牧瀬里穂がスカイラインか。タレントの顔やシ−ンは思い出すけれど、クルマの顔や走りのシ−ンは全然頭に残ってないな。そもそもクルマの方が良いものが無いよね。バリッとしたマスクとスタイルのものが全然無いんだ。一応売れているのはスカイラインなのかな。
牧瀬里穂のスカイラインのコマ−シャルなんか本当にひどかったと思うんだ。牧瀬が「カッコつけたきゃ乗ってみな」って挑発してさ、ブ−ンと飛ばすやつ。何だいあれ。警察や運輸省がよく文句言わないもんだと思うんだ。だいたいいつも思うんだけど、クルマに乗っていてマナ−が悪いのはRVか日産じゃないか。高速で乱暴な追い越しをしたり、尻を振って危険な車線変更してるのって、大抵スカイラインとか中古のシルビアとかフェアレディだよ。頭の悪い若い男の子が頭の悪い女の子を乗せてバカやってるなって感じ。
僕もそれは同感だ。日産はそういう悪いイメ−ジを払拭しようとせず、逆にそれを真実の自分のマ−ケットだと思い込んで、そういう阿呆な連中に向けて一生懸命メッセ−ジを発信しているわけだ。高い広告料払って一生懸命イメ−ジダウンをやっている。これじゃシェアは開く一方だよ。マ−ケティングの教科書をちゃんと読み直した方がいい。ケンとメリ−の頃までとは言わないけれど、せめて陽水のセフィ−ロぐらいまで戻って、昔を思い出して欲しいものだね。
ホ−ムペ−ジ見ても、トヨタと日産じゃエライ違いだよ。

セダン vs RV

それと関連するけれど、もう一つトヨタのCMについて注目するべき重要なポイントは、これが単に「王者の余裕」を示すというようなイ−ジ−なプロジェクトではなくて、「セダンの復活」つまり「RVへの挑戦」を賭けたチャレンジであるということだと思うんだ。今回のトヨタは挑戦者なんだ。四駆ブ−ムの波に乗ってトヨタの牙城を崩そうとする勢力に対するカウンタ−として打ち出されたコンセプトなんだよね。非常に論理的だし説得力があると思う。トヨタのマ−ケティングも代理店のクリエイタ−も優秀だよ。クレスタでは堂々と「セダンという生き方」とまで言っていたね。よく言った!と手を叩きたくなったよ。たとえ茶髪であっても服装はドレッシ−にきめているんだ。クラウンやマ−クIIに乗るドライバ−っていうのは、きちんと夏でもポロシャツ着て、コットンパンツ穿いて、デッキシュ−ズ履いてなきゃいけないんだよ。そうじゃなきゃ諏訪内さんなんて乗っけられるか。
日産に乗ってる若いのもひどいけれど、RVほど迷惑なものはないよ。あれこそ本当に日本人のエゴイズム剥き出しの姿だ。河原でキャンプしてゴミを放り棄てる。渓流に乗り入れて自然を破壊する。そればかりじゃない。軽油を使えば大気が汚染されるなんて分かりきった話だろう。自然との触れ合いとか自然環境を護ろうなんて体のいいことを口で言って、RVで徹底的に自然を壊しまくっているのは日本人じゃないか。日本人の醜悪な自己欺瞞の象徴がまさにあのRV車だよ。
乗ってるオヤジもその家族も大体がだらしないんだよね。RVでファミリ−レストランに乗りつける図ってさ、まともな恰好してるの一人もいないよ。ステテコみたいなのはいて草履姿だろう。汚いから脛毛を見せないで欲しいんだけど。いわゆる公衆道徳とかマナ−感覚みたいなのが完全に麻痺していて、それでもいいだろう、何が悪いんだって開き直るのが、あのRV車のライフスタイルなんだよね。つまりさ、自然を護って自然を楽しむということは、自然を護ろうと口で言って軽油で空気を汚すことだと彼らは思っている。美しい原理というのはタテマエで、醜いホンネこそが真実。その二つが分裂しているのが当然で、それが社会的前提なのだと思い込んでいる。皆が巧く嘘をつきながら生きているのであり、自分も人より巧く嘘をつかなきゃと思っている。そういう日本人の姿がそこにあらわれているんだ。
確かにRVは大きくて広くて居住性がいいだろうさ。子供が多けりゃワンボックスが楽かも知れない。でもクルマの図体がデカくなりゃ、当然、駐車スペ−スも余分になるし、洗車の水だって余分にかかる。そして何より道路の道幅は変わらないんだ。公共の空間スペ−スは変わらないのに、それをシェアする個人の空間ばかりがデカくなって図々しく突出する。結局、RVというのは公共の資源を犠牲にする個人の欲望の突出であり、ワガママの黙認なんだよね。他はどうなろうが自分たちだけが楽になりゃいいっていう日本人特有のエゴイズムの総噴出現象だよ。誰かに皺寄せが行くのだし、いずれは自分にハネ返って来るのにさ。

クルマ社会のポストモダン

バブルの頃から交通事故の死者が増えて、年間一万人を超えてどうのというのをやっていたよね。久米宏なんかがずい分心を痛めて熱心に特集を組んでいた。もちろん基本的にはバブルでクルマの量が急増したのが原因なんだと言えるんだろうけれど、僕は決してそれだけじゃないと思う。朝日新聞の「声」が一時キャンペ−ンやっていたけど、運転者のマナ−がひどく悪いんだ。いや、マナ−が悪いなんて言うような生易しいものじゃなくて、ドライバ−の精神状態が異常になっているんだよ。いつもストレスが溜まっていて苛々していて、攻撃的かつ防御的になる。つまり道路は戦場であり、互いに傷つけ合う場所であり、自分が生き伸びるためだったら何でもありの世界だ、みたいになっている。そこに全体を規制し統御する法律とか倫理が生きてないんだ。エゴとエゴがぶつかり会って破滅するスレスレのところで何とか事故を回避している。そこで一瞬計算が狂った瞬間に事故が起きる。僕にはそうとしか思えない。教習所で習う交通規則が本当に死文化して、タテマエになっている。
人が信じられない。同じクルマを運転している隣のドライバ−のことが信用できない。そういうドライバ−の群れであるクルマ社会の全体が信頼できない。つまり社会不信としての人間不信ということかな。
きっと学校の教室空間も同じなんじゃないだろうか。何でもありの生き残った方が勝ち、負けていじめられて死んだ方が負け。先生は「タテマエ」の交通警察官で、点数稼ぎのために義務的にスピ−ド違反車を検挙する。
よくテレビなんかで「日本は経済的には豊かになったけれど、その代わりに大事なものを失った」なんて関口宏なんかが真面目な顔して言っているじゃない。あれは何か高度経済成長のときの昔話を反省的に言っているように聞こえるんだけれど、僕は決してそうじゃないと思う。過去形じゃなくて現在進行形なんだよ。ムシロ高度成長の頃なんかよりバブル以降の日本人の方がよっぽどその傾向が強いはずなんだ。グロテスクなほどにね。全然反省なんかしていないよ。RVの快適さを手に入れるために交通安全を犠牲にし、せっせと自然環境を破壊している。自分だけの快適、自分だけの満足のために自然や社会や世界に対してどれだけ被害を与えているかわからない。
本当はそういうのを「よくないからやめろ」って言うのが社会学者のはずだったんだけど、逆に「それはポストモダン的でいいことだからどんどんやれ」って日本人のエゴを正当化し、煽っていたのが日本の社会学者だったんだよね。
学者がそう言うんだから、広告代理店だって、コピ−ライタ−だって、テレビ局の社会情報局だって本気にしちまうさ。いま「社会」っていう言葉はさ、すごく軽いじゃない。とても軽く響くよね。政治学者って言うとまだ多少の重みが残るんだけれど、社会学者って言うと何か学問的責任を回避した「遊び人」のようになっちゃうよね。自分の学問は遊び半分ですからそう思って下さいってエクスキュ−ズする肩書が社会学者だよね。政治面に対する社会面、報道局に対する社会情報局、要するにワイドショ−のレポ−タ−なんだな。
でも、それは昔からそうだったんじゃない ?
社会学の軽さはそうかも知れないね。でも社会という言葉には重みがあったと思うよ。「社会」と言われると何かその言葉の前に緊張して立たなきゃいけないような感じがしていたように思う。小学校とか中学校の頃のことなんだけどね。例えば「社会党」なんて言うと、何か生真面目で、正義的で、倫理的だったような気がする。「社会」という看板を背負った人間なり集団というのは、他の一般の人間よりも正義的で倫理的でなければならないという重い前提があったと思うんだ。
そう言えば、中学校の公民の「民主主義」の授業なんて先生はずい分緊張していたように思うし、小学校のクラスでも「反省会」なんて熱心にやっていたよね。
結局、社会というのは本来軽く流して済まされるものじゃないんだ。「いいよ、いいよ、エゴに任せて好きにやれば」ってわけには絶対行かなくなる。梶山静六が言っているのはそういうことだよね。梶山的な論理が日々説得力を強化しているのが今の時代なのじゃないのかな。

マドンナ vs コギャル・ギャル・熟女

話がだんだん暗い方に行っちゃったね。クラウンのCMに戻そうじゃないか。あのCMは全部がいいんだけれど、僕が特に言いたいのは、イメ−ジキャラクラ−の選択、諏訪内晶子さんと草刈民代さんの抜擢ということだ。クリエイタ−の知的センスが光っている。
あの二人はいいよね。なかなか今いないよね、ああいう女性は。
そのとおり、いないんだよ。ああいう女性、われわれが「女性」という言葉を使って相手を見る対象がそもそもほとんど絶滅状態なんだ。今の日本の女たちを見てごらん。コギャルか、熟女か、バラドル系か、男まさりのコワモテ風か、そういう生き方・ライフスタイルの女ばっかりだろう。はしゃいでいるか、アソんでいるか、開き直っているか、タバコ吹かしているかばっかりなんだよ。ロマンが無いんだ、これっぽっちも。
アグリ−。xxさんと、さんづけして呼ぶ女の人がいなくなった。そういう女の人の顔が全然浮かんで来ないもの。今、さんづけで呼べるのってNHKの国谷さんぐらいじゃないか。せいぜい..。
昔は「マドンナ」という言葉があったよね。「坊っちゃん」に出てくるマドンナだけど、近代日本の男たちが日本の女に求めた一つの理想型イデアルティプスだと思うんだ。クラウンのCM見てて、久々に「マドンナ」という言葉を思い出しちゃったな。女は男から見て憧れの存在であって欲しいよ、いつの時代だって。
近代日本がポストモダン日本となって、女は「マドンナ」から「コギャル・ギャル・熟女」となるわけだ。ロバ−ト・ベラ−が「近代とは倫理的な伝統の問題である」と断言した意味がひしひしとよくわかるよね。僕はやっぱりマドンナがいいや。
でも最後にトヨタに言いたいな。「クラウンを教えてください」でなくてもよかったと思うんだ。諏訪内晶子さんや草刈民代さんなら堂々と「私はクラウンが好きです」と言って欲しかった。彼女たちが直にハンドルを握ってもよかったと思うんだ。
430万円のクルマだし、不景気の日本で本当に誰がこれを買うのかという問題もあったかも知れない。トヨタ全体の製品ラインアップの中でのポジショニングもあって、女性向けの製品はもっと下のこれというマ−ケティング戦略もあるんだろう。でも、それでもあの二人にハンドルを握る主役になって欲しかった。クラウンのオ−ナ−という資格は十分だもの。クリエイタ−とトヨタ、あるいはマ−ケティングとセ−ルスの意見対立があったとすればそこじゃないかな。最後にちょっぴりトヨタらしいコンサバティズムが出ちゃったということかな。


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