霧の中にて


 寒い冬のある日の出来事だった。
「やべ、急げっ、このままじゃ、遅刻だぁ。」
 その日も男は走っていた。男の名は佐藤一郎。都内のある、食料品を扱う
中堅商社に勤める一介のサラリーマンだ。だが、今日もそうだが、朝、6時
に家を出て、毎朝、通勤電車を2時間以上掛けて、会社に通うのは辛い。だ
から、そのせいか、彼は朝寝坊して、会社に遅刻しそうになることも良くあ
るのだった。
 よって、そんな具合だから・・・今日も彼は不覚にも、朝寝坊してしまっ
たのだった。
「やば。もうこんな時間だぁ。」
一瞬、青い顔になって、彼は飛び起きた。急いで背広に着替え、朝食のパン
をかじり、宅配されたビンの牛乳もいっきに飲み干す。そして、彼は素早く、
自分の腕をコートの袖に通し、急いで靴を履き、玄関のドアを開けた。だが、
そんな具合で、今日も家を飛び出して来たのだった。
 しかし、彼が異変に気付いたのはそれから、しばらく後だった。

 今日も遅れてしまったが、急げば何とか、6時30分の電車に間に合う。

 そう思い、通いなれた道を猛ダッシュで駅に向かう彼だが、周りの風景が
何故か、妙に変なのだ。というのも、彼の周りはいつの間にか、深い霧に包
まれており、周りの風景も全然見えないのである。だが、

 妙だな。

そう彼が思ったときのことだった。

 ドスン!

     「ぎゃぁ!」

 霧の中で視界が不充分だったせいか、彼はいきなり前から走ってきた何者
かににぶつかってしまったのだった。そして、
「イタタタ!」
ぶつかった拍子にしりもちをつき、倒れている佐藤の前に
「オイ、大丈夫か!」
40代中盤くらいの男が立っていたのだった。
「えぇ、それに私も不注意でしたし・・・」
それに対し、佐藤も相手を心配させないように返事をし、自力で起きあがる。
だが、妙なのはこれからだった。
「ところで、キミ、最近仕事のことで悩んでいたりしないか?そうだろう?
図星だろう?でも、心配すること無いぞ。頑張っていれば、いつか、報われ
るときが来るからな。」

・・・・・何、言ってるんだ。このおっさん。

 彼のぶつかった、40代中盤くらいの相手のおっさんが全然、意味が分か
らないことを言ってるのだった。だが、佐藤は内心、ドキリともしていたの
だ。事実、彼自身、最近、なかなか商談で契約も取れないなど、仕事が上手
く行かず、悩んでいたからだ。だが、いつまでもそこにいたら、遅刻してし
まう。だから、
「悪いな、おっさん。俺は急いでいるから、もう行かなくちゃ、いけないん
だ。じゃあ、またな。」
彼は急いで、そこを後にしたのだった。

 だが、彼がそこを後にした後、おっさんはこうもつぶやいていたのだ。

「そういえば、あのときもこういう霧の深い日だったよなぁ。だが、あれか
ら、20年・・・その間、死に物狂いになって働いたさ。そして、今じゃ、
俺も仕事でそれなりの結果を残し、現在、妻子と家族3人の平和な家庭を築
いている・・・だがな、とにかく、頑張れや、20年前の俺よ。頑張ってい
れば、いつかは報われるからさ・・・」

 だが、その頃、佐藤はいつの間にか、霧の晴れた周囲の景色の中、猛ダッ
シュで通いなれた道のりを駅に向かうのだった。

彼の人生の長い旅は続く・・・


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