第二章 危険な女


第二章 危険な女

テーブルの上にケーキがある。バースデイケーキ。二十二本のロウソクが立っ
ている。
 ロウソクの火がかすかに揺れている。
「もう、十年もたつのね。」
「ああ、あいつも二十二才だ。」
五十才近い女と男の会話。
「あの子元気かしら。」
女の眼には涙が浮かんでいる。
「ああ、元気さ。きっとどこかで元気にやってるさ。」
男も今にも泣きそうである。
「そうね・・・」
女の眼から涙が流れ落ちた。
「さあ火を消してくれ。」
男は、そう言うと窓を開けた。
冷たい風が部屋に入り込む。
風は、火を消した。
二人は拍手をした。悲しい音色の拍手を。
「おめでとう、拓。」
晩秋の風はこの二人にはあまりにも冷たかった。
六日市 拓の父と母には。

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薄暗い冷たい廊下を歩く二つの足音。
「さっきの女、あれもう十年もここにいるんだ。」
「十年ですか。」
廊下を歩く二人の会話。二人とも白衣を着ている。
「おまえ、十年前に起きた小学校六年生の誘拐事件覚えているか。」
「えーっと、いや、誘拐事件なんてこの十年に何回もありましたから。」
「学校の保健室から白昼堂々と誘拐された少年だよ。」
「ああ、それなら覚えてますよ。」
「あのとき、その現場に養護教員が居合わせていたんだ。」
「はい、」
後輩らしい男は興味津々に話を聞く。
「その教員が、さっきの女なんだ。」
「へー、そうなんですか。でも、なんでその人がここに。」
「そのことなんだが、あの女よほど恐ろしかったのか悲惨なめにあったのか精神
がプッツンしちっまたらしいのさ。」
「それで、」
 先輩らしき男は唾を飲む。
「それで、」
後輩は先輩の話に聞き入った。
「それで、あの女妙な事を言い出したらしいんだ。」
「どんな事ですか。」
「自分、つまり彼女がだ、その誘拐された少年に首を切断されたと。」
「まさか、」
「まさかだ、そんな事ありえるはずないだろう。なんってたって、あの女の首は
くっついてんだもんな。」
「その話、先輩が作ったんでしょう。」
「いくら俺だって、こんな馬鹿な話つくらねえよ。でもこの話もっと恐ろしいの
は彼女が発見されたとき首に傷があったんだってよ。」
「何かで締められた痕じゃないんですか。」
「最初はそう思ったらしいのよ彼女担当の医師も、だけど検査してみてびっくり
切り傷らしいんだってさ。それが十年間消えないんだってさ。」
後輩は顔色を変えた。
「それじゃあ、首を切断されたって言うのはまんざら嘘でもないっていうんです
か。」
「切断されたって事は無いだろうが何か謎があるって事はあるんじゃないのか
ねー」
「いやー変な話ですね。あの女には関わらないほうがいいかもしれませんね。」
「いや、俺は逆だよ。あの女を調べてみたい。おまえも手伝ってくれないか。」
後輩は顔を歪めた。
「まさか、医長の所に行くってのは・・・」
「そのまさかさ。」
白井武雄は医長室をノックした。その隣には後輩の麻木健太がいる。
「はい、どうぞ。」
部屋の中から渋みのかかった声がする。

四畳半程の部屋。扉は鉄。窓には鉄格子。扉ののぞき窓は外からのみ開けられ
る。まるで牢屋である。
これが、この精神病院の個室。
この個室では6時間おきに検温。そして、一日一回主治医の診察がある。これ
らには看護婦ではなく看護士が同行する。万が一患者が暴れたときの事を考えて。
個室にはいる人間は特に重病の患者、もしくは暴力的な患者である。しかし、
それ意外にもう一種類の患者もいる。それは、実験題。
それは、この国の法律では許されていない。しかし、身寄りのない者,家族か
ら見放された者,それらの患者をそれに使用する事があると。もちろん法外で、
だが暗黙の了解の上で。
この四畳半の部屋にいる彼女もそれになろうとしていた。
彼女、葉月美香。

ソファーに二人の男が並んで腰掛けている。一人は四十過ぎ、もう一人は三十
になるかならないかの男である。そして、テーブルを介して対面のソファーには
六十過ぎの骨格のしっかりした男が座っている。
「白井君が中岡君の後を継ぎたいのか。うむ。」
六十過ぎの男、精神科医長永田潤蔵が言う。
「はい、私はあの女。いや、葉月美香の症状に興味を覚えましたので是非。」
白井は丁寧に対応する。
「うむ、あの患者は家族からも見放されているし、君の患者も先週亡くなったこ
とだし。許可しましょう。」
永田は、意外と簡単に結論を出した。
「それで、麻木君を助手にしたいと思うのですが。」
白井は言う。
「うむ、麻木君は大学でも成績優秀だったらしいし、若いしねえ。いいと思いま
すよ。」
永田は麻木の方を向いて。
「麻木君、白井先生は素晴らしい先生ですよ。彼に付いてしっかり頑張って下さ
い。」
「はい、わかりました。」
麻木は、緊張気味に返事をした。
「ありがとうございます。」
白井が言うと二人は席を立った。
「あ、白井君。ちょっと他の話があるから待ってくれ。」
永田が帰ろうとする白井を呼び止めた。
「はい。悪いけど麻木君先に帰ってて。」
「わかりました。それじゃ、先輩の書類の整理もしておきますから。」
麻木はそう言うと医長室を出た。
「良い後輩を持ったじゃないか。」
永田が微笑みながら言った。
「恐れ入ります。ところで、話とは。」
「他の話と言ったが実は葉月美香の事なんだ。」
「あの患者、まずいんですか私じゃ。」
「いや、そう言う訳じゃないんだが相当厄介だ。覚悟してくれ。」
永田は眉間にしわをよせながら言った。
「どのように厄介なのですか。」
白井は眉を潜めた。
「中岡君が事故死したのは君も知っているな。」
「はい、車でトラックと正面衝突だとうかがっていますが。」
「うむ、その通りなのだが。」
「何かそれに不振な点でも、彼はもともとスピード狂でしたからあのような事故
にあっても不思議だとは思いませんが。私も何度か彼の助手席に乗る機会があり
ましたが何度死ぬと思った事か。」
「それは、私も知っている。」
「それならば、単なる事故死では。」
「彼に遺書があったとしてもかね。」
永田の顔が渋みを増した。
白井は驚いた表情をした。
「まさか、遺書があったら警察が・・・」
「私が、渡さなかったのだ。」
永田の信じられない発言に白井は絶句した。
 何分か沈黙が時を支配した。それを崩したのは白井だった。
「なぜ、なぜ渡さないのです。」
「それが、中岡君の遺志でもあったからだ。そして、彼の家族も遺書の事は知ら
ない。これも、彼の遺志なのだよ。」
言い終わると永田は席を立ち机のある方へ向かった。そして机の引き出しか
ら、一通の封筒を出した。
「これが、彼の遺書だ。これは、彼が死んだ翌日私の所へ送られてきたんだ。」
永田は封筒を白井の前のテーブルに置くと再びソファーに腰掛けた。
白井は封筒から手紙を取り出し読んだ。

遺志

敬愛なる永田潤蔵教授へ

私がこのような事で自害するのをお許し下さい。あの患者、葉月美香は私のよ
うなか細い神経の持ち主では対処しきれぬ恐るべき患者であります。
彼女がここに送られてきた当時、彼女は「六日市君に首を切断された。あの子
は悪魔よ。」と言うような事を毎日何百何千回と叫んでおりました。この事は、
教授もご存知だったと思います。そして彼女の首には傷がありました。この傷は
彼女が誘拐の現場で犯人にワイヤーやピアノ線のような物で閉められたときの傷
であると私は思っていました。しかし、十年たった今でもその傷は彼女の首にく
っきりと残っているのです。彼女は毎日十年間傷が直らないように傷を引っ掻い
ていたのでしょうか。
そのような事をしてもあのようにくっきりのこっているはずはありません。
私は、このような疑問から最近彼女の首の傷に付いて検査しました。すると、
どう考えても彼女の首は一回切断されているとしか考えられない恐ろしい結果が
出たのです。この結果の詳細は教授の所に別の封書で投函いたしました。
 私は自分を呪いましたなんと恐ろしい事に遭遇したのかと。
しかし、恐ろしいのはこればかりではありません。彼女は、最近変な事を言い
始めたのです。「あの子が迎えに来る。逃げなくては。あの悪魔が私を迎えに来
る。」このような事を言うのです。私が、あの子とは誰だ。と聞くと。
「六日市拓よ。」と言うのです。六日市拓、それは十年前彼女がいた保健室で白
昼堂々誘拐された少年の名ではありませんか。その六日市少年が迎えに来る。と
言い出したのです。十年たった今になって言い出したのです。私はとても恐ろし
い。
しかし、こんな事では私は自害などしません。私が自害する気になったのはそ
の六日市少年に会ったからなのです。そして世にも恐ろしい光景を目にしたので
す。私はいや、人類はもう終わりなのです。私は黙示録の最終戦争をみたので
す。もし、悪魔というものが存在するのであれば彼が六日市少年がそれなのです。
私が死んでもこの遺志は警察には渡さないで下さい。そして、私の愛する家族
にも。
最後に教授にお願いがあります。葉月美香に関する研究は全て中止して下さ
い。できることなら、彼女を殺して下さい。そうすれば人類は救われるかも知れ
ません。

           一九九三年 一一月六日
        中岡 次郎

遺書にはこのようなことが書かれていた。
「最後の方は支離滅裂ですね。夢話ですよ。そうとう精神が参っていたのでしょ
うね。」
遺書を読み終わった白井が言った。
「うむ、そうだな。しかし、彼はそんなに神経の弱い奴じゃなかったんだがな。
やはり、葉月美香恐ろしやと言ったところか。」
「永田先生までそんな事を言われては困ります。」
「それだけあの患者を診るのは疲れるから精神をやられないように気をつけろと
言う事だよ。」
「それはそうですね。ところで、遺書の中盤に書いてあった首の検査の詳細です
が、それはどこに。」
「おお、それならここだ。」
永田は机の後ろの本棚から大きな封筒を取り出し白井に渡した。
「それから、レントゲンとCTの写真はレントゲン室の駒場君に番号を言っても
らってくれ。」
「これ、私の部屋でみていいですか。」
白井は聞いた。
「ああ、いいとも。しかし、期待はしないほうがいいぞ。」
「と、言いますと。」
「中岡君が書いている、首の切断後などないのだ。」
「えっ!それじゃ彼は精神がやられて幻影でも見たと言うのですか。」
「どうやらそうらしい。」
「わかりました。それでは、しつれいいたします。」
白井は部屋を出た。
中岡の奴そこまで参っていたのか確かに葉月美香恐ろしやだ。
白井はそう思い自分の部屋へ戻った。


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