第四章 怨念


第四章 怨念

 この場所は四方が有刺鉄線で囲まれている。そして、ひとつの看板が掲げてあ
る。
 [T市立稲綾小学校新校舎建設地]
そう看板には書かれていた。
稲綾小学校、十年前忌まわしき事件の起こった場所である。しかし、その事を
記憶にとどめている者はこの場所にはほとんどいない。
この場所は、学校の裏の雑木林を切り開いた土地である。林の一部は残してあ
る。つまり、林の中に新校舎が建つ事になる。これは、子供を自然と親しませよ
うという教育方針らしい。
この土地はまだ木を切り倒しただけで切り株が残っている。そして今日から本
格的な整地がされようとしていた。
切り株は一つ一つ取り去られて行った。そして、最後の一つの切り株が取り去
られようとしていた。
パワーショベルの先に切り株が引っかかった。グオーンとパワーショベルは切り
株を根ごと持ち上げた。
「さー、昼飯の時間だぞ。」
現場監督らしい人物が言った。
ここには、パワーショベルを運転していた人も含め五人が作業をしていた。
 現場監督を含め三人は少しはなれたところにあるラーメン屋まで昼を食べに行
った。
 残りの二人は弁当を持ってきたらしくパワーショベルのキャタピラの上に座り
飯を食べ始めた。
「熊さん、いつも弁当ですね。」
二人のうちの若い方が言った。
「鷹山も最近弁当じゃねえか。」
熊さんと呼ばれた男が言う。
「いやー、愛妻弁当ですよ。」
鷹山は、ニヤニヤしながら言った。
「そうか、おまえ新婚だったな。俺のは愛妻弁当じゃないんだ。」
「もしかして、愛人弁当でしょう。」
「ばか、ちげーよ。恐妻弁当だ。」
「それじゃあ、毒でも盛られてるかも。」
熊さんは、鷹山の話を聞いていなかった。最後に取り去った切り株の方を見て
いた。
「熊さん何見てるんですか。」
「あの切り株だ。あれ桜の木だろう。」
「そうですね、確かに。」
「他の切り株見てみろ、ほとんどが松や杉の針葉樹だ。変だよな。」
「変ですね、でも有り得ない事じゃないでしょ。」
「おまえ知ってるか、桜の木の下に死体が埋まってると桜の花は綺麗に咲くんだ
ぜ。死体の血が桜の養分になってな。」
「ほんとっすか?」
「おまえ、あの木の根っこに死体がついてるか見てこいよ。」
「いいすっよ。」
鷹山は弁当箱をキャタピラの上に置いて桜の切り株の方に走って行った。
「ははは、馬鹿がまにうけてやがる。」
熊さんは、笑う。
「く、熊さん!」
鷹山が叫ぶ。
「なんだよ、大声だしてうるさいな。」
熊も叫ぶ。
「死体があるんだよ。」
「そんな嘘わかってんだよ。桜が血を栄養にするなんて嘘なんだよ。」
「いいから早く来てくれよ、熊さん。」
「まったく、何があるんだよ、もぐらの死体か。」
熊さんがかったるそうに、鷹山の方へ行く。
鷹山は、桜の切り株の根を指さし震えていた。
熊さんは、指さす方向を見た。
そこには、白骨化した死体があった。桜の根に絡まれた白骨死体。それは、子
供のものであった。
桜の木の下に死体が眠る。これは今、迷信から現実へ。

地元の警察署の調べにより死体の身元は判明した。
子供の遺体は、服を着ていた。そして、名札が付いていた。稲綾小学校の名札
が。
 名札に書かれた名前は

六日市 拓

十年前の忌まわしき恐怖が今この同じ場所、稲綾小学校によみがえった。
そして、十年前の事件はここに結末を見た。もっとも忌まわしい結末を。

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 木々の葉はすでに落ちていた。
 一部の常緑樹が寂しく繁っている。
 六日市 拓の葬儀から、すでに一か月以上が経っていた。
今、島村 明は拓の母と向かい合っていた。六日市家の応接間で。
「お葬式の時はいろいろありがとう。本当に助かったわ。拓もきっと喜んでいる
わ。」
拓の母は言った。
「いえ、何のお役にもたてませんで。でも、おばさやおじさんが思ったより元気
でなによりです。」
「今日、明君に来てもらったのは拓のことであなたには知っていてもらいたい事
があったからなの。実を言うと拓は私たちの子供じゃなかったの。」
明は驚いた。
「え!でも、なぜ僕にそのような事を話してくれるのですか。」
「あなた、拓のために日本中を旅してくれていたそうね。だから、話すの。拓の
為にそこまでしてくれた人だから。」
また明は驚いた。なぜ、旅の事を知っているのか。
「なぜ、・・・」
明がそこまで言ったとき、拓の母は口をはさんだ。
「あなたのお母さんが話してくれたの。」
あの、ばばあ。明はそう思ったが、旅の資金を援助してくれたのは母だからし
ょうがないかとも思った。
「お母さんを責めないで、私が無理に聞いたの。」
「はい、口の軽い母ですから。」
「拓の話にもどすわ。私は子供のできない体だったの、それでも私たちは子供が
欲しかった。神様はそんな私たちを見捨てはしなかったの。」
ここで、宅の母は一息いれた。
「私の知り合いに、産婦人科の先生がいるの。その頃、その産婦人科に一人の少
女が来たの。それも、夜中に。」
少女は身重だった。
そして、その夜のうちに子供を産んだ。
明らかに、早産であった。
産まれた子供は男の子であった。
しかし、その少女は次の朝、病院から消えていた。
前夜に聞いた名前、住所とも偽りのものであった。
産婦人科医は、この事を警察には届けなかった。
なぜ。
産婦人科医は六日市夫妻の事を知っていたからだ。
日頃から子供を欲しがっていた事を知っていた。
産婦人科医は一カ月待った。少女から連絡がくるのではないかと。
しかし、連絡はこなかった。
そこで、この子供を六日市夫妻に託した。
六日市夫妻は、出生届を出した。
六日市 拓という名で。1971年11月18日に。
これが、拓の出生の真実であると拓の母は語った。
「そうだったんですか。その後、少女から産婦人科医への連絡はあったのです
か。」
明は聞いた。
「半年程たって一通の手紙が産婦人科、室田先生宛に来たの。『子供は元気です
か、誰か優しい人に子供を育ててもらって下さい。』という内容だったの。それ
以来、連絡はないの。」
「そうですか、それならおばさんが本当の拓の母ですよ。」
「私は、その少女に謝りたい。拓を死なせてしまった事を。」
拓の母はいきなりそのような事を言い出した。
「少女は、拓を捨てたのですよ。そんな人に謝る必要はないです。それに、その
少女が今どこにいるかわからないのですよ。拓も喜びはしませよ。」
「でも、謝りたい。」
「おばさん、拓はあなたの子供だったのです。それ以外の何者でも。」
拓の母はようやく落ちつきを取り戻し、取り乱していた事を明に謝った。
「おばさん、そんな過去の事は忘れるべきです。拓もおばさん以外は母親だなん
て思っていませんよ。きっと。」
「そうね、ありがとう。明君。」

白い壁。
それを見ている。うつろな目で。
ここは、精神病院の一室。
うつろな目の主は、葉月美香。
ギギィ・・・
鉄の扉は開けられた。
美香は、気づかないのか壁を見ている。
まず、看護士が部屋に入ってきた。続いて白衣を着た四十過ぎの男が入ってき
た。
美香の主治医、白井 武雄である。
白井は美香の座っているベッドの前に立った。
「おはよう、葉月さん。」
白井は笑顔で言った。
美香は白井の顔を見上げ、
「壁が見えないわ。」
と一言。
「ごめん、気づかないで。」
白井は立っている位置を少し右にずれた。
「今日は君に良い報告があるんだ。」
白井が言う。
「ここから出られるとでも言うの。」
美香は壁を見つめながら無表情で言う。
「いや、そうではないんだが君がいつも言っている拓君の事なんだ。」
白井が言うと美香の目は鋭くなり壁から白井の方へと顔を向けた。
「六日市 拓が来たの。もう、終わりだわ。私たちは殺されるの。」
美香の体は微妙に震えていた。
「そうではないんだ、彼は死んだんだ。いや、正確に言うと死んでいたんだ。君
がこの病院につれられてきた頃には、つまり十年前には死んでいたんだ。」
白井はそう言い、美香に拓の死体が発見されたという新聞の記事を見せた。
震えは大きくなった。美香の震えは大きくなった。
「ついに来る、六日市 拓がついに来る。あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・」
美香は叫びだし引き付けを起こした。
白井は急いでポケットからハンカチを出し美香の口に詰めようとした。
その時美香は言った。
ひとこと言った。
白井にしか聞こえない小さな声で。
白井はハンカチを美香の口に詰めた。看護士は美香の体を押さえた。
白井は廊下に飛び出しインターホンに叫んだ。
「特別病棟106号室に鎮静剤を頼む。」

考えていた。
島村 明は、考えていた。悩んでいた。
俺は、また深みにはまろうとしている。
拓の母のために拓の実母を探そうとしている。いや、拓の母のためではなく今
は亡き拓のために実母を探そうとしている。
俺には、そんな、そこまでする義理など無いはずだ。
思い起こせば、拓が失踪したあと日本中を旅して拓を捜索する義理も無かった
はずだ。
確かに、拓とは親友であった。俺は少なくともそう思っていた。
だからといって、そこまでする義理はない。なぜ、俺はあそこまで真剣になっ
たんだ。
 そして、これからまたそうなろうとしている。
これは、義理などではない。もっと深いところにあるもの。
友情。
愛情。
それとも違う。
運命。
それが一番近いだろう。
だが、それよりもっと、もっと深いところにあるものだ。
感情、思考が俺を動かしているのではない。
二重螺旋がそう命じている。
拓に係われ。
肉。
俺の肉。
血。
俺の血。
血と肉が俺に命じている。
拓に係われと。
俺はもう係わりたくない。係わるとおまえの人生を棒にふるぞ。
脳と心はそう命じる。
だが、
血、肉そして二重螺旋は、拓に係われ。おまえは、もう拓からは逃れられない。
そう命じる。そう叫ぶ。
明は悩んでいた。
だが、拓からは逃れられない。
明はそれを確信した。
 なぜなら、脳、心、感情、それらよりも高いレベルで血、肉、人間の核心DN
A二重螺旋がそう命じている。
 明はそう考えたからだ。今までの行動、結果を理解しようとしてもそう考えざ
るおえなかったからだ。
そして、明は家を出た。
向かうは、産婦人科医、室田の所だ。拓が生まれた場所、六日市夫妻が拓を引
き取った所場所。
 室田産婦人科だ。

 白いあご髭をはやした六十を超す男と明は向かい合っていた。
 応接室。ここは、室田産婦人科の応接室である。
 明と白いあご髭をはやした男、室田はテーブルを介しソファーに座り向かい合
っていた。
テーブルの上には琥珀色の液体の入ったコーヒーカップが二つおいてあった。
 明の座っているソファーの横はちょうど出窓になっていた。出窓の上には幾種
類かのサボテンがおいてあった。
 窓の外には紅く染まった紅葉の木が見えた。風が吹くたびにその葉が幾枚か風
に流されていく。
「そうですか、拓君のお母さんがあの少女に、いや今では少女じゃないですね、
拓君の実母に会って謝りたいと言っているのですか。」 
 明は、事の成り行きを室田に話したらしく、これは室田の返答だった。
 室田は、話を続けた。
「しかし、少女は子供、つまり拓君を産んだ次の朝には消えていたんです。そし
て、後にも先にもこの手紙が一通、私の所に来ただけです。」
 室田は、テーブルの上に茶色く色あせた封筒をおいた。
 明は、封筒を手に取り中から一枚の便箋を取りだした。

    室田産婦人科院長様
 私は、一か月ほど前の夜中、そちらで子供を産んだ者です。名前は書けませ
ん。子供は元気でしょうか。もしかしたら、死んじゃったかもしれませんね。あ
の子は死んだ方が幸せかも知れませんね。生きていても私は引き取る訳にもいき
ません。生きていて元気ならば、どうか優しい人に育ててもらって下さい。
私は絶対にその子に会いに行きませんし、後になって返してくれなどとは言いま
せん。どうか、優しい人にその人の子供として育ててもらって下さい。それと、
先生が警察には知らせていないみたいなのでほっとしました。感謝しています。

 神様、身勝手な私をお許し下さい。

 手紙の文面は以上であった。もちろん、名前や住所などは書いてなかった。 
明は、封筒を見た。封筒にも室田産婦人科の住所そして、室田院長様と書いてあ
る以外には少女の素性を表すものは書かれていなかった。
「この手紙には、少女の素性がわかることは何も書かれていません。ただ、消印
が甲郵便局なので少女はこの近辺のポストから投函したらしいということがわか
ります。しかし、この近辺で投函したからと言ってこの近辺に住んでいるとは限
りませんが。」
 室田はそう言い、コーヒーカップを口に運んだ。
「先生、その少女は高校生くらいだったのですよね。」
 明は、訪ねた。
「確かに、高校生くらいだと見えました。」
「ありがとうございました。お忙しいのに時間をさいていただいて。どうか、僕
が拓の実母を探している事は拓のお母さんには言わないで下さい。探し出せるか
もわからないし、心配もかけたくないので。」
「わかりました。しかし、君はなぜそこまでするのかね。」
 室田は明に訪ねた。
「僕も、わかりません。だけど、やらなくてはいけないんです。それだけはわか
っています。」
「そうですか、不思議な人ですね。もし、私に出きる事があれば手伝いますから
いつでも訪ねてきてください。」
 室田は微笑んだ。
「それでは、失礼します。」
 明は席を立ち頭を下げ、応接間を出た。
 病院から出ると空は灰色に曇っていた。
 暗雲立ちこめる中、明は歩いて言った。

 明は甲郵便局の管轄内の高校を調べた。私立高校も含め八校が管轄内にはあっ
た。
 二十二年前には、五校だったらしい。
 女子校生が妊娠し、子供を産んだとなればいくら隠しても噂になる可能性が大
きい。それも、二十二年前だ。今のように性は氾濫していなかったはずだ。妊娠
していた女子校生はそう多くないはずだ。
しかし、今以上に性に関する事は秘め事と考え隠していたと考えられない事もな
い。だが、少女は産んでいる。
つまり、下腹部は膨れていた訳だ。そのような姿で高校に通えばわからないはず
がない。
 高校を休んでいた。それも、長期にわったて休んでいた。こうなれば、誰かの
記憶に残っているはずだ。
 これは、少女が高校に通っていたと考える場合だ。少女が働いていたりした場
合には、また変わってくる。
 だが、第一段階として女子校生だったと考えよう。そして、甲郵便局管轄内か
ら少女が手紙を出している事から、安易ではあるが甲郵便局管轄内の高校生であ
ったと考えよう。
 明は、頭の中で以上のような捜索方針を立てた。
 まず明は、図書館、資料館、知り合いの高校教師をつてに当時1971年に甲
郵便局管轄内にあった高校五校の同窓会名簿を手にいれた。
 1971年の秋に高校生であったと言う事は1972年から1974年に卒業
している事になる。留年も考え1975年も含めよう。
 明は、この四年間に卒業した生徒の名簿を見、各高校各クラス一名を適当に選
んだ。そして、その人立ち一人一人を訪ね、その人達からそのクラスの当時の噂
や情報を聞いた。
 そして、そのクラスで一番噂や情報に精通していたような人物も訪ねた。その
情報に精通していたような人物にもあってみた。
 この行動には大変な労力を必要とした。快く対応してくれる人もいたが、たい
ていの人は明に良い顔をしなかった。
 だが、このやり方は一応成功した。
 そして当時、妊娠をして出産したらしい六人の少女が挙がった。
 明は、卒業アルバムなどから六人の少女の写真を手にいれた。そして、室田医
師に確認を頼んだ。
 そして、室田医師は一人の少女の写真を指した。
「この少女ですよ。確かに覚えていますよ。この娘に間違いないですよ。」
 明は室田の指さした写真を見た。
 おや、今までよく注意して見なかったがどこかでみた事がある顔だ。明はそう
思い、その写真の少女の名前を確認した。
 この名前もどこかで聞いた事がある。明は思った。
 十年程前に、拓を最後に見た保健室の記憶がよみがえる。
 その保健室に写真の少女はいた。
 葉月 美香。
 それが、室田の指した写真の少女の名前。
 保健室にいた少女、いや女性。
 それが、葉月 美香。
 まさか、なんという偶然、いや、これは偶然ではなく必然。
 拓があの日、保健室に行き、そこにいた葉月 美香が養護教員だった。
 そして葉月 美香は狂った。拓は消えた。そして、一か月前、その死体が発見
された。
 そして今、拓の実母が葉月 美香だという事実。
 明は鳥肌が立った。
 恐怖から、自分がまた拓の世界へと引き込まれていく恐怖から鳥肌がたった。
 嬉しい。
 恐いが嬉しい。
 明は感じていた。
 拓の世界に引き込まれていく恐怖の反面、また拓に会えるような気がして嬉し
いと感じていた。
 恐怖の鳥肌はすでに歓喜の鳥肌へと変わっていた。
 明もそれに気づいていた。

落ち葉散る寒い晩秋の夜道を少女は歩いていた。
歳の頃は十七、八。高校二、三年である。
少女の下腹部あたりは、ぽっこり膨れている。
肥満ではない。
明らかに、身重、妊娠をしている。
顔は、青ざめている。
[室田産婦人科]
そう書かれた看板の前で少女は立ち止まった。
もう、夜もふけている。診療時間は終わっていた。
少女は、か弱い力で産婦人科医院のドアを叩いた。
何分くらい叩き続けただろうか、ドアの鍵を開ける音がした。そして、中から
四十近い口髭をはやした男の顔がのぞいた。
「どうしました。」
男は、優しい声で少女に訪ねた。
少女は何も言わず、いや何も言えず男の顔を見ていた。青白い顔で。
男の目は少女の顔から、下腹部へと移った。
男は、下腹部を見てこの少女が妊娠しているという事をすぐに理解した。
男の目はさらに下へと移った。
少女は白いズボンをはいていた。そのズボンの腿のあたりが濡れていた。
紅く濡れていた。
その時、男は事の重大さに気づいた。
男は、宿直の看護婦を呼び少女を分娩室へと運ばせた。
少女の激烈な痛み、そしてうめき声と共に望まれぬ堕天使が吠えた。
赤ん坊は、男であった。早産であった。
少女は病室に移された。そして、思い出していた。
少女は、友達の紹介で三十過ぎの男とつき合っていた。最初のうちは、食事
を一緒にしたりコンサートへ行ったりというものだった。
男は結婚をしていた。それを知っていたので深みにはまってはいけないと思っ
ていた。
だが、少女は男を愛してしまった。
男は遊びであった。
男は少女から離れていった。男の細胞を少女に残し。
少女は、男が去って間もなく妊娠を知った。
 愛情は増した。男との間にできたまだ見ぬ天使と共に。
 少女は男を探した。
 男を自分だけの物にしたかった。
 半年以上も探し続けた。
 そして、男の居場所、素性を知った。
男は自分と住む世界の違う人間であった。
日本有数のいや、世界にまでその勢力を拡大しつつある大会社社長の二世であ
った。
 少女は、その時点で男の事は忘れようとした。
 しかし、今となってはその激情を消し去る事はできなかった。
 一目、あと一度あの男に会いたい。そう思った。
 そして、少女は意を決して男に会いに行った。
 今日の夜、今から五、六時間程前の事であった。
男は、豪邸に住んでいた。
 少女はその豪邸の前にそびえる威厳のある門の横に申し訳なさそうに付いてい
るインターホンを押した。
 インターホンからは女性の声が聞こえた。
 どうやらこの家のメイドの声であるらしい。
 少女は男に用があると告げた。
 何分かの時が流れた。
 門の横にある通用門が開いた。
 そこから、男が出てきた。少女の愛した男だ。
 男は少女の下腹部が膨れているのにすぐ気づいた。
 男は何かおぞましい物でも見たかのように嫌な顔をした。
 男は今までにも何度かこのような顔をしたことがある。
「私、あなたの子供ができたの。」
 少女がそう言うと男は、 
「そうか、家の中では何だから外で話そう。いま、車を出してくる。」
 男はそう言うと通用門から家の中へ消えた。
 また数分の時が流れた。
 門の前に一台の車が止まった。男の車だ。車庫は家の裏手にあり男はそこから
車を出してきたのだ。
 少女は車の助手席に乗った。
 男は車を出した。無言のドライブが三十分程続いた。
 少女は現在どこを走っているのかわからなかった。
 男は車をあるシティーホテルの駐車場へと止めた。
 男はチェックインをした。偽名を使って。
 男はホテルにはいるとき車からスポーツバッグを出しそれを持って入った。
 男は部屋に少女と入った。
 部屋にはいると男は、スポーツバッグのジッパーを開け中にある物を部屋のベ
ッドの上にぶちまけた。
 それは、札束だった。一千万はあった。
「子供を産むか産まぬかは君の勝手だ。しかし、この金で俺のもとから消えてく
れ。二度と俺に関わらないでくれ。もし、金が足りなければもっとやる。」
男は言った。
「好きなの。愛しているの今でも。」
少女は泣いた。
「俺の立場をわかってくれ。頼む。俺には妻がいるんだ。」
男は土下座した。
だが、少女は
「奥さんと分かれて、私と・・・・愛してる。好きなの」
と言い続けた。
「妻と分かれる事はできる。だが、そうすればもっとも大切な物も失う事にな
る。だから、わかってくれ。この金で。」
 男は懇願した。少なくとも少女にはそう見えた。
「大切な物、それは何なの。」
 少女は涙声で聞いた。
「それは、俺の約束された地位だ。俺は親父の会社の社長になれるのだ。妻の親
は親父の会社にとって大切な人物だ。俺は妻と政略結婚をする事でこの地位が約
束されたんだ。もし妻と分かれる事になれば。」
男は泣いていた。
 少女にすまないことをしたという気持ちからではない。
自分の一時の遊びで自分の約束された地位が崩れ落ちてしまうという恐ろしさ
で泣いていた。
 少女にはそれがまるで、すぐ目の前にある自分の欲しかったおもちゃを誰かに
目の前で取られて泣いている子供のように見えた。
 プッツン
 少女の中で何かが切れた。
自分はなぜ、こんな哀れな男を愛していたのか。
その気持ちは憎悪に変化していた。
「わかったわ。こんなお金はいらない。」
少女はそう言うとホテルの部屋を出た。そして、ホテルも。
今、少女の頭は冷静であった。
ホテルを出るとそこは、自分の家からそんなに離れていない事が少女にはわか
った。
少女は自分の家の方へ向かい歩きだした。
ズッキン
下腹部に痛みが走った。
少女は股間から何かが流れ落ちるのを感じた。
少女の冷静さはまた失われた。
どこをどう歩いたか、少女は産婦人科のドアを叩いていた。
蒼白な顔で。

産婦人科の病室のベッドの上で少女は憎悪に打ちひしがれていた。
あの男に対する憎悪か、いや違う。
哀れみ、すでにあの男に対しては哀れみしかない。
それでは誰に対する、自分か。
確かにそれもある。
しかし、もっと強い激烈な憎悪を誰かに抱いていた。
いったい誰に、
それは、今さっき、この夜に生を受けた者に対してだった。
そう、堕天使、自分の子供にであった。
少女は明け方前、病院を去った。
一人の悪魔を残して。

「お母さん、お母さん。」
 確かに声がした。
その声に目を覚ました。
 葉月美香は、白い壁の病室で目を覚ました。
 夢を見ていた。
夢の中で自分の忌まわしい過去を思い出していた。
声は、自分の罪悪感からくる幻聴だ。そう彼女は思った。
彼女は部屋を見渡した。
誰もいるはずがない部屋を見渡した。
だが、そこには人影があった。
白井か、彼女は思った。だが、小さすぎる。
その人影は、白井にしてはあまりにも小さかった。
少年。
それは、少年であった。
見覚えのある顔。確実に知っている顔。
美香の顔は蒼白になった。
そこに立っている少年は口を開いた。
「もうすぐ、迎えに来るよ。」
そう言った。
「あ、あなたは・・・」
美香は声にならない声を出した。
「お母さん、あなたは十分懺悔した。罪は償われた。だから、もうすぐ出してあ
げるよ。」
少年は、そう言うとゆらゆらと陽炎のように消えて言った。
美香の意識が薄れたためにそう見えたのかも知れない。
少年、
六日市 拓は、陽炎の如く消えた。
その姿は、小学生の時のままであった。
これは、夢ではない。
薄れ行く意識の中で美香はそう確信していた。
 そして、あの時捨てた悪魔が六日市 拓であり、その悪魔が帰ってきたという
事にさらなる恐怖を覚えていた。


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