▼川上弘美『センセイの鞄』(平凡社)
三十代独身の大野月子は駅前の一杯飲み屋で、高校時代の国語の担当教師だった松本春綱と再会する。松本「センセイ」は七十代になっていた。現在のところお互い独り身であった二人は、それからつかず離れずの関係を繰り返しながら、やがて本気の恋に落ちる。年齢のことがありながらも、本気で身体を重ね合わせて、本気で更年期障害を気にするツキコ。
と、こうやって二人の関係にばかり焦点を当てると、「恋に年齢は関係ない」なんていう単純なお題目でも立てられそうだが、文体が軽いのに比べてこの小説は、なかなか一筋縄ではいかない。
たとえば、その他に出てくる登場人物は、居酒屋の主人であるサトルさん、そのいとこトオルさん、センセイの高校教師時代の同僚たち、高校時代のツキコのクラスメートだった小島孝など、主要なのはすべて男性。女性で主要人物といえば、ツキコの夢の中に出てくるセンセイの亡妻ぐらい。
この小説はツキコを主体にした三人称形式の一人称である。ツキコに対して友好を結んだり対立したりするような女性は出てこない。女性の視点というものをまったく排除している。これはツキコが孤独だというより、ツキコの個人的な世界がこの小説を覆っているということ。(女性のお喋りや諍いなどという、現代社会の軋轢の象徴のようなものを避けている)そして読者は、ツキコの個人的な世界に安住していられるという構造を持つ。それぞれの男性に取り柄があり、それぞれ男性としての魅力をもちながら、あくまでも最終的にツキコが視線を送るのは、センセイのみだ。酔っぱらいがセンセイとツキコの間柄を眺めて「やってるの?」とまで邪推しているシーンがあるが、実は下卑た妄想が介在するのを排除するための要素がこの小説に存在するという主張であり、それこそが川上弘美の練られた簡易な文体であり設定であり、考え抜かれた隠し味があちこちにちりばめられている。「老いらくの恋」などという評価で片づけずに、何度でも読み直して著者の技巧に触れていこう。(2002/03/13)
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