あなたの中には大きな力が眠っている


 産業行動研究所の小野浩三氏が伝える、ロジャー・バニスターというイギリスの中距離ランナーの話をご紹介しましょう。(『精神開発の技法』ダイヤモンド社刊)
 バニスターは、陸上競技の一マイル競争で初めて四分を切ったランナーですが、彼がその記録を達成するまでの話です。
 一九二三年、天才ランナーと言われたフィンランドのヌルミ選手が、一マイルを四分十秒で走り、それまで三十七年間も破られずにいた記録を二秒更新しました。当時としては驚異的な記録でした。
 もうこれ以上の記録は人間には出せないだろう、と専門家は断言し、新聞もそう書き立てました。やがてそれが「世界の常識」になりました。ところが、三十年後の一九五四年、バニスターがとうとう四分を切ったのです。
 そのとき、バニスターは考えたそうです。多くの人たちは、困難な問題に挑戦するにあたって、最初からぜったい無理だと決めてかかっている。これでは、実際に記録を破る力があっても、力を出し切れないまま失敗してしまう。バニスターは、「世界の常識」に疑問を抱くとともに、猛烈な練習を重ねた結果、ついに世界新記録を樹立しました。

 

●実力を発揮するには

 バニスターは、あなたの記録は科学的練習の成果か、とたずねられるたびに、「いいえ、私の記録は、私の精神の所産です」と答えたそうです。彼は、否定的な意識を持っていては、困難は乗り切れないことを、だれよりも知っていたのです。
 さらに興味深いことは、バニスターがこの記録を出してからは、一マイル四分を切る選手が続々と現われたことです。三十年間だれもできなかったことが、急にできるはずはありませんから、四分を切る力は、すでに多くの選手に備わっていたのです。ただ、その中にあって「きっとやれる」ことを、もっとも強く信じたのがバニスターだったと言えましょう。
 このように、本番のときに、持っている実力が出せないで終わる、こんな残念なことはありません。上がってしまったり、緊張しすぎてしまって、練習のときには何でもなかったことにつまずく、というのもよくあることです。考えすぎたり、「うまくいくだろうか、失敗したらどうしょう」といった不安が、いつもの自然な調子を乱してしまうのでしょう。
 小野氏は前掲の本の中で、
「否定的意識は、マイナスの方向に人間行動を制御する。……すなわち、それによって、本来、出るべき力(潜在力)が出なくなるような状況が生じてしまう。否定的意識が脳中枢に抑制を生じさせ、そのため力の発揮が困難になる。これが内制止(インターナル・インヒビション)と呼ばれる現象である」と指摘しています。無謀な自信家では困りますが、いわば「落ち着いた、静かな自分への信頼:自信」は、実力発揮のためには欠かせないようです。

 

●使わずじまいの可能性

 バニスター選手の場合は、世界記録というたいへん大きな話でしたが、問題の本質はだれにとっても同じです。
 アメリカの哲学者であり、心理学者でもあったウィリアム・ジェームズによると、人間は、みんな本気で生きているように思っていても、たいていの人は、自分の潜在能力の二五パーセントぐらいしか使っていない、つまり、残りの七五パーセントは一生使わずじまいだということです。この数字の細かい正確さはともかく、一般に私たちは、自分の中に、使われないで眠ったままになっている力がたくさんあることに、まだまだ気づいていないのは確かなようです。
 そうした力を生かすことの大切さは、別に仕事に限った話ではありません。今まで以上に細やかな心づかいや、思いやりの心で人に接することができれば、よりいっそう円満で気持ちのよい人間関係が、もっとたくさん生まれてくるでしょう。


出典 広池学園出版部 編集発行『ニューモラル選集G 新しい私を育てる』 pp.163−166