ある青年の体験から…

──母の足を洗う──

●親の恩に気づく

 児童文学作家の花岡大学氏が、こんな話を紹介していました。
 大学卒業の青年が、入社のための面接試験を受けたときのことです。その席で社長から「君は今まで親の体を洗ってやったことがあるかね」と、聞かれました。それに対して「いいえ」と否定した青年でしたが、それでも採用される見込みがあったとみえて、社長は「すまないが、明日この時間にここへきてくれないか。しかし、ひとつ条件がある。それまでにぜひ親の体を洗ってきてほしいのだが、できるか」といいました。彼も「はい、なんでもないことです。やってきます」と答え、家へ帰っていきました。
 この青年の家は貧しく、父親はすでに亡くなっています。母親は呉服の行商で必死になって働き続け、この青年は大学を卒業できるまでになったのです。
 その日、彼が家に帰ると、行商に出掛けた母親はまだ帰っていませんでした。“帰ってきたら、どこを洗ってやろうか”と考えた青年は、外へ行って足を汚しているに違いないから、足を洗ってやろうと決め、たらいに水をくんで待ちました。
──そこへ母親が帰ってきたので「足を洗ってやろう」というと、元気な母親は「足ぐらい自分で洗うよ」という。そこで洗っていかねばならないわけを話すと「そんなら洗ってもらおうか」と納得して、青年のいうままに縁先に腰を下ろした。その足もとへたらいを持っていった青年は「さあ、ここへ足を入れて」というと、母親はいわれるままに足を入れた。
 青年は右手でその足を洗おうと思って、左手で母親の足を握った。だが握ると同時に青年は右手でよう洗わないで、両手で母親の足にすがりつくと声を上げて泣いた。握ってみて、母親の足がこんなに固い足になっていたのかということを初めて知ったからである。学生の時、毎月送ってくれる学資を「あたりまえ」のようにして使っていだけれど、あの金はお母さんがこんな固い足になって送ってくれていたのかということが、今初めて解ったのである(『PHP』四〇三号)──

●思いやりの心を生み出すもの

 今まで気づかなかった親の恩を、握っている固い足を通してはっきりと知った青年は泣かずにいられなかったのでしょう。恩を感じる素直な心が生まれたのです。翌日、いわれた通りの時間に会社に行った青年は、「恩の大切さを初めて知ることができました」と、うれしそうに社長にお礼を述べたということです。
 そして花岡氏は「親の“恩”にかぎらず、自分の暮らしが“あたりまえ”を超えたさまざまな“恩”に支えられて成り立っていることを“素直に”把持したとき、それはただちに、すみません、ありがとう。といった生きた言葉となって人間関係をパッとあかるくすることを、この青年の受けとった贈りものの感動的な話を通じでじっくりと考えてもらいたいと思うのである」と、話をしめくくっています。
 自分の暮らしに何ひとつ「あたりまえ」ということはなく、さまざまな恩に支えられ、生かされていることに気づいたとき、心はプラスに向かい、素直な感謝の念が生まれてくるといえます。
 感謝の心になることによって、心が広くなり、ゆとりもできます。そして、心が広くなり、ゆとりができることによって、相手の立場に立つことができ、思いやりの心がいっそう出てきます。さらに、自分のことをかえりみることも、よりよくできるのではないでしょうか。また、その積み重ねが、喜びをもって前向きに生きようとするエネルギーを生み出すことにもなるでしょう。

出典 広池学園出版部 編集発行 『ニューモラル選集E 感謝の心で生きる』 pp.71−74