なんのために生きるか

 松下村塾にはいろんな人がおりました。松陰の偉いところは、自分が死刑になるとだいたい予感していたので、獄中から一人ひとりの弟子の身の振り方を、それぞれ決めてやっていることです。さすがにガイダンスが行き届いています。大したものです。
 その中に、天野清三郎という勉強ぎらいで見込みがないと思われる弟子がいたのです。松陰は高杉晋作に手紙を書いて、「高杉、お前が自分に代わって面倒を見てやれ」といっているのです。そこで高杉晋作は、松陰先生の遺言どおり天野清三郎を引き取って、腰巾着みたいにして勤皇運動をして歩いたわけです。高杉は天才中の天才といわれるくらい頭のいい人でした。あの英仏連合艦隊が下関を攻撃した講話条約のとき、長州藩の代表になっていったのが二十五歳です。そのときイギリス人の肝っ玉を冷やすようなことをいって、堂々と談判してきたのですから大したものです。一方天野は鈍才中の鈍才でしょう。とてもじゃないが高杉さんのまねはできん、わしは政治運動には向かん、ということが身にしみてわかったわけです。それでも自分の人生のデザインをせねばならん。いつまでも高杉さんの腰巾着をやっておってはだめだ、と気がついて、何になろうかと考えたところが耳の中に松陰先生の言葉が残っていた。
 それは、ペリーが黒船を連れて浦賀へ来たときに、松陰はちょうど江戸にいたので、夜中じゅう浦賀まで駆けて行ってそれを見てきた。そのことがあってから弟子たちに、
「お前たちの中で黒船を造る者はおらんか。あれを造らなければ日本は植民地にされてしまう」
といったのです。現にペリーは何千人もの陸戦隊をのせていたのですから、あのとき幕府が開港しなかったら、まったく松陰先生のおっしゃるように、日本は植民地になっていたかもしれないのです。天野の耳にその言葉が残っていましたから、
「そうだ。おれは勉強嫌いだけれど、手先の仕事は好きだ。だから舟大工になって黒船を造ろう」
そう考えたのです。けれどその当時、舟大工になるというのは、武士を捨てて職人になるという大変なことなのです。しかも、勤皇運動の仲間に加わってそれから抜け出すということは、いろんな秘密を知っているから、味方からも命をねらわれるのです。
 そこで彼は、慶応三年に密航して上海に逃げました。そして上海からロンドンに渡り、ロンドンの造船所で働きながら船造りを覚えました。ところがやってみると、大変なことになった。船を造るには、基礎の数学だの物理だの力学だのといった学問を徹底的にマスターしなければだめだ、ということがわかったのです。彼は勉強嫌いだから船造りになろうと思ったのです。ところが勉強しなければならない。しかも、ついこの間まで漢学一本の勉強をやっていた男が、ロンドンという異郷の地で、英語を使って数学や物理や力学を勉強するのです。もう血を吐く思いだったといっています。夜学校に入ったのですが、イギリス人は一年で卒業できるのに、三年たっても卒業させてもらえません。わからないからです。わかるはずがないでしょう。数学のスの字も知らない人間が、いきなり造船学の基礎になる高等な数学を勉強するのですから。しかも英語も不十分なのだから、本当に血を吐く思いだったに違いない。でもこれをやらなければ帰れないのです。自分の生きる道がないからです。そこで今度はアメリカへ渡って、ボストンの造船所で働きながら夜学へ通いました。すると今度は不思議によくわか ったということです。英語も上達していたし、アメリカの学校の教え方が進んでいたのでしょう。
 そうやって辛苦の末に造船学をマスターして、明治七年に横浜に上陸しました。そして東京へ訪ねていけば、かつての松下村塾の仲間が明治政府の高位高官にいるではありませんか。面会に行くと、
「天野、お前生きておったか、どうしておった」
「いや、船造りを覚えてきた」
「よしっ」
ということになって、天野清三郎は、明治政府が長崎に造った日本最初の長崎造船所の所長になりました。今日、世界一の百万トンドックがある三菱造船所の初代所長になったのです。世界に冠たる日本の造船業界の、文字どおり草分けの第一人者になったわけです。後に名を改めて渡辺蒿蔵といい、日本郵船の社長にもなりました。
 松下村塾のいわば落第坊主、勉強嫌いの天野清三郎が、どうしてロンドンやボストンで、血を吐く思いをしてまで勉強することができたのか、その底力はどこから出たのか。それは、自分は何のために生きるかを真剣に考えた末、自分の持ち味の発揮と世のため人のために役立つことが結びついた、どうしても果たさなければならない夢を持っていたからです。


岩橋文吉 著 「持ち味を活かす教育」 pp.55−60 広池学園出版部