つづけられてきた水確保の努力


●蛇口から水が出るまで

 水道の蛇口をひねれば清潔な水が勢いよく出る──それはいかにも当たり前に思えますが、はたしてそうでしょうか。降った雨が水源地から川を下り、ダムにたくわえられ、取水口、浄化場、水道管をへて蛇口から一滴の水の集まりとして出るまで、つまり、おいしい水が飲めるまでに、東京では六日と十五時間かがるといわれています。水は長い旅をしてくるわけです。しかも、水道局の人たちの絶え間ない努力があるからこそ、蛇口をひねるだけできれいな水が出るのです。蛇口の向
こう側にいる人々に対して感謝の念をもちたいと思います。


●玉川上水建設の苦労

 水を守り、水を確保するための努力は、古くからつづけられています。
 たとえば玉川上水。羽村−江戸四谷木戸間、約五〇キロの玉川上水は、江戸の昔、八百八町、百万人のノドを潤したことで知られています。
 江戸の町の発達にともなって飲料水が不足し始め、承応二年(一六五三年)、幕府は多摩川の水を引く計画を立てました。その工事の中心となったのは玉川庄有衛門と清右衛門の兄弟でした。玉川兄弟はこの工事に生命をかけ、その苦労もたいへんなものでした。
 承応二年春、幕府から五千両の大金がおり、いよいよ上水工事が始まりました。しかし天候が不順で、工事が思うようにはかどりません。五千両もまたたく間に底をつき、やがて労働者に払う賃金も滞り始めました。そこで玉川兄弟は自分たちの田畑を切り売りして賃金に当てました。そして、とうとう最後の田畑までも手放し、工事をつづけましたが、資金が足りなくなり、ますます苦しくなっていきました。しかし、人間の生活にとって水がいかに大切であるかを知っていた玉川兄弟は、この工事を放棄することはしませんでした。
 ある晩、庄右衛門と清右衛門は金の工面のために江戸に出かけました。その間、給金があてにならないのならと、労働者たちはとうとう工事をやめてしまいました。やけになった労働者の中には、上水堀をたたきこわせ、という者まで現れました。金の工面ができず、がっかりして工事現場にもどった庄右衛門は、労働者たちの前で深々と頭を下げ、必死の声をふりしぼりました。
「私はお前たちを裏切った。だから何をされてもうらまない。しかし……、あの上水堀は私のものではない。あれは江戸何十万人の人間の生命につながっている。あれをこわされたら、江戸の町民たちが永久に苦しまなければならない。だから、上水堀には手を触れないでくれ。上水堀さえ無事ならば、私がいなくても、何年か何十年か先に、きっとだれかが私の遺志を継いでくれるだろう。だから、私は死んでもかまわない、ただ上水堀だけは……」
 あたりは一瞬シーンと静まり返り、いつしか庄右衛門の目にも涙がれていました。
 さっきまであんなにいきり立っていた労働者たちも、庄右衛門の熱意に打たれました。いちばん前に立っていた労働者が、鋤をもったままスタスタと工事場へ向かい、黙々と上水堀を掘り始めたのです。一人、二人、三人……やがて全員が目に涙を浮かべながら仕事にとりかかりました。庄右衛門と一足違いで清右衛門がもどってきたとき、真夜中の仕事場には恐ろしいほどの活気がみなぎっていました。
 翌承応三年(一六五四年)四月、工事はついに完成し、多摩川の清き水が江戸の町へとうとうと流れこみました。以後約二百四十年間、明治二十三年に東京市上水道ができるまで、この玉川上水は市民たちの貴重な飲料水の供給源としてその役割を果たしつづけました。
 おそらくこのような例は、全国各地にたくさんあることでしょう。無名の先人たちが工夫し努力してくれた成果が、今も多くの人々の生命を養っているのです。

出典 広池学園出版部 編集発行 『ニューモラル選集E 感謝の心で生きる』 pp.33−36