歴史の中の「短気」の戒め

●国のために落ち着こう

 文久二年(一八六二年)の十月、坂本龍馬と岡本健三郎の二人が、赤坂氷川町の勝海舟の屋敷を訪れました。のちに、維新の大きな原動力となった龍馬は、この時、二十八歳でした。
 龍馬は尊王攘夷をつよく望んでおり、開国論を唱える海舟には反対でした。二人は、海舟を切りに来たのです。もともと龍馬は心の広い人でしたが、このときは自制心をうしない、のぼせていたのでしょう。
 二人が面会をもとめると、海舟は鋭い眼で二人を見据え、「お前たち、まず心を静めろ」と、大声で言い、「二人でわたしを殺しにきたのか?殺すなら、ひと息ついてわたしの話を聞き、それからにしろ」
 このように、さとしました。堂々とした海舟の態度に胆をつぶした龍馬たちでしたが、すかさず海舟は「わたしも江戸っ子で、気が短い。だが、お前さんたちも、わたし以上にのぼせるたちらしい。理性をうしなった者同士が国の将来を案じても、何の得にもなりゃしない。落ち着こう、国のために落ち着こう」
 と、心をこめて言いました。懇々と説く海舟に、二人はすっかり心服し、この日を境にして、龍馬と岡本健三郎は海舟の弟子になったといわれています。
もし、龍馬たちの短慮によって海舟を倒していたら、明治維新はまったく別の様相を呈していたかもしれません。

●冷静になるまで待つ

 中国の秦の始皇帝の時代、趙国に藺相如(りんしょうじょ)という将軍がおり、趙の王から重くもちいられて、ぐんぐん出世しました。この国にはもう一人、廉頗(けんぴ)という武将がいましたが、相如の出世を怒って、
「戦で手柄をたてたわしより出世するとは、なにごとか。今に見ておれ!」
 と、ののしるのでした。
 相如が出世したのには、わけがあるのです。ある所で、趙王と秦の始皇帝が出会い、二人の王は論争をはじめましたが、なにしろ始皇帝は飛ぶ鳥も落とす権力の持ち主。とうとう趙王は言い負かされてしまいました。ところが、そばにいた相如が主君のために、機智を働かせて始皇帝を逆に言い負かしてしまったのです。趙王の面目はたちました。これが相如の出世の原因です。
 しかし、廉頗が怒っているといううわさをさ聞いた相如は、彼に会うことを避けるようになりました。あまりの逃げ腰に家来もあきれ、
「あなたは、いくじなしです。いまでは身分が下の廉将軍を、どうして恐れるのですか?」
 すると、相如はしずかな口調で、
「私は、趙王のためには始皇帝にもたてつく男だ。廉将軍を恐れるわけがない。だが、現在の将軍は自分を見失っている状態である。将軍が冷静になるときを、私は待っているのだ」
 と、言いました。この話を伝え聞いた廉頗は自分の短慮をおおいに恥じ、みずから相如の家を訪ね、心からあやまりました。それから、二人は「刎頸(ふんけい)の交わり」(友人のためには、首をはねられても悔いないほど深い交わり)を結び、助け合って趙国のために尽くしました。「刎頸の交わり」という言葉は、ここから出たそうです。

自然に身についた白制心こそ大切

 人が短気を起こしやすい状態は、自分の意思が無視されたとき、先をいそいでイライラしているときなど、いろいろです。このようなときの心の状態は身体にどんな影響を及ぼすでしょうか。
 カッと腹を立て、頭に血がのぼり、どなったりしているときは、私たちは息がつまり、胸が圧迫され、呼吸が苦しくなります。血圧しつが高くなることはもちろん、日頃から心臓疾患を抱える人には、これが心筋梗塞を誘発する原因になる場合もあるほどです。
 短気をおこして怒っているときは、ホルモンの一種であるカテコールアミンという成分が血液中に大量に放出され、これが血液を汚し、血液を酸性にしてしまい、老化を早めることにつながっていきます。
 これらの事実は「短気は短命」のことわざを実証していることになります。徳川家康の遺訓の一つに「堪忍は無事長久のもと」ということばもあります。堪忍をすることによって家が永く存続するという意味ですが、いっぽうでは内向的になりすぎると、人によっては体に毒な場合もあるでしょう。短気がうちにこもる場合もあるのです。我慢したために体をこわしたのでは、なんにもなりません。にわかづくりの「堪忍」ではなく、自然に身についた「自制心」こそが、大切なのではないでしょうか。

出典 広池学園出版部 編集発行 『ニューモラル選集E 感謝の心で生きる』 pp.96−101