汚染された定義語(言葉に付着する思想のウイルス)

     ──排他的・感情的であることの正体と定義語操作の恐怖──


 排他的・感情的・自己中心的であるということは、「論理的思考」の欠如と深い関係があるのではなかろうか。特定の思想信条に心酔する人間は、なぜ感情的・排他的・自己中心的になるのであろうか。「反論の技術」を研究過程にその謎が解けたのである。そして、思想のウイルス感染者がなぜ、感情的・排他的・自己中心になるのかが解明できた。
 このページでは、「言葉を定義することの恐ろしさ」について考えてみた。論理的な思考をするときには、定義語に「感情的・評価的言葉」を含ませてはならない。しかし一方で、言葉を故意に「感情的・評価的言葉」によって定義することによって、議論を有利に進めることもできるし、相手の思想信条に大きな影響を与えることがわかった。私はこれを、『定義語操作』と名づけた。そして、以下、このことを説明してゆきたい。


1.定義をするということ

(1)まず定義から

 議論をするとき、言葉の定義は不可欠である。民主主義に関して議論する場合、「民主主義」という言葉が何を意味するか、A君とB君が違う意味に解釈していると、この二人の議論は全くかみ合わないだろう。


(2)感情的・評価的言葉

 評価的な言葉とは「いい」とか「わるい」とかの価値判断を含む言葉である。感情的な言葉は、「喜怒哀楽」を含む言葉である。これらの言葉は、議論のテーマとなる「主題」(たとえば、民主主義)を定義するには、不適当である。と同時に、論理的思考を行う上でも、思考に使用する「言葉」にあらかじめ価値判断や感情が含まれていては、偏見にとらわれない、公平で的確な思考は困難と言わざるを得ない。


(3)定義からの議論

 議論の型として「定義からの議論」というのがある。すなわち、「自分は××の語を○○の意味で使う」(説得的定義)とか、「自分は××を○○と呼ぶ」(名づけ)とかがそれにあたる。この議論では、定義の中に、「感情的・評価的言葉」を含ませることによって、立論するのである。一方、反論する側は、定義に含まれる「感情的・評価的言葉」をチェックし、「その定義はおかしい」と反論するのが、定石である。その定義を認めてしまったら、その時点で議論の決着がついてしまうからである。


(4)定義の悪用

 意図的に、日常語の定義に、この「感情的・評価的言葉」を含ませたらどうであろか。例えば、平和教育では、戦争という言葉の定義を、「戦争とは、絶対悪である」としている。結論は決まっている。「戦争は絶対悪である」→「戦争はいけない」となる。生徒は何も考える余地がない。すなわち論理的思考がストップするのである。論理的にものを考えようとしたときは、定義語に「感情的・評価的言葉」を含ませてはならないのである。逆に、相手の論理的思考をストップさせようと思えば、「感情的・評価的言葉」で物事を定義すればよいのである。

 @ 人工妊娠中絶は、殺人である。
 A ●●さんは、裏切り者である。 
 ※Aは、プロパガンダの「Name Calling」という手法である。



2.特定イデオロギーに染まった人はヒステリック

(1)排他的であるということに関して

 排他的であるということは、自分の思想信条と相容れない考え方を認めない(排除する)という態度である。自分の意見以外を認めようとしないのである。これはいったいどういうことか。何によってそうなるのか。
 その人は、何に対して排他的なのであろうか?それは、自分の思想信条と対立している考え方に対してである。すなわち、その人は、自分の思想信条と対立している考え方に対して、『それは悪いものだ』という定義をしているのである。それゆえ、"悪いもの"を認めない(排除した)にすぎないのである。
 自分の思想信条と相容れない考え方をどう定義するか──その定義の中に「感情的・評価的言葉」が含まれているかどうか。これが、排他的であるか否かの分かれ目であろう。


(2)感情的であるということに関して

 感情的であるということは、自分の思想信条と相容れない考え方に対して、論理的な思考を放棄して、腹を立てる(その逆の場合も考えられるが)ということであろう。なぜこのようなことが起こるのであろうか。個人の好悪や経験からくる思い入れもあろうが、結局、自分の思想信条に反する考え方に対して、『それは怒りを感じるものだ』という定義をしているからである。それゆえ、論理的思考よりも感情が先に立ち、ヒステリックに反応したりするのである。


(3)自己中心的であるということに関して

 これまで話題にしてきた「感情的・評価的言葉」は、利己心との結びつきやすい。他人の意見を聞かず、自分の意見だけを強弁する傾向のある人は、感情的・排他的であることが多い。感情的な人間を論理的に説得することはできなし、排他的な人間は、他人の意見に聞き耳を持たない。すなわち、自分の思想信条を死守するのに実に都合がいいのである。利己心と結びついて、自分の思想を変質させてしまうという点では、この「感情的・評価的言葉」は、言葉の思想のウイルスと言えよう。


(4)定義語操作

 ものごとの定義の中に「感情的・評価的言葉」を潜ませさえすれば、議論を有利に進めることもできるし、相手の思想信条に大きな影響を与えることがわかった。これを故意に行うことを、『定義語操作』と名づけることにする。もしも自分が、排他的、感情的な状態になっていたら、『定義語操作』が行われていることを疑う必要がある。物事を定義する言葉に「感情的・評価的言葉」が含まれていないかチェックする必要があるのである。


3.意味のわからない言葉(おまけ)

 言語明瞭・意味不明という言葉がある。すなわち、何を言っているかわかりやすいが、内容が無い言葉、意味がわからない言葉、論理的におかしい言葉である。これらは、スローガンや合い言葉によく使われるが、注意が必要である。使っている人に必ず意味を質問すべきである。
【例】 国民的合意が得られてない。(過半数か、三分の一か、全員一致かわからない)
    民主的(学校では、管理職(権力者)を除いた平教員の全員一致=社会主義的という意味で使われる)
    子供が主役。 自主性に任せる。 強制はいけない。 など。