健康診断さえ受けなければ
今ごろはまだ、生きていたかもしれない
T氏の事
 

 

 

 

 

 

 

 

 


実は、T氏については、以前、少し書いたのです。しかし、その時はまだ、情報が少なかったので、どういうわけで亡くなったかは、よく分かりませんでした。しかし、ある筋から、主治医の真意を知るに至ったので、氏の冥福を祈るつもりで、少し経過について書かせていただきます。今までのお話とは勝手がちょっと違いますけれど、内容としては私の主張に沿ったものだと思います。どんなに有名な医者でも失敗はするものであるし、例え失敗するのが百例に一例であっても、その一例になった人にとってはたった一つの命なんだということです。

 

T氏は、小さな会社の経営者でした。年の頃は、六十代前半。私の知っているT氏は、ちょっとおしゃれなオジサンでした。いつも、会うときには、ランバンやピエールカルダンのスーツを軽く着こなし、おしゃれなイタリア製のネクタイをしていました。私も、もうちょっと年を取ったらこんな風にダンディにできるといいなぁ。と、ちょっと憧れのオジサンでした。(でも、きっと年取っても、いっつもチノパンやジーパンをはいてるんだろうなぁ…。)飲み屋や、レストランを良く知っていて、高い店から安い店、新しくできた店まで、よく知っていましたし、そういう店に行くと、必ず、知った人がいるというのが、私には驚きでした。「いやぁ、この間はどうも。」なんていうと、「いつもありがとうございます**さん。今日は、新鮮なのが入ってますよ。」なんて具合です。

ヘビースモーカーで、よく飲み、よく食べました。おおよそ健康とは程遠いといった感じではありましたが、まさか、こんなにすぐに亡くなるとはねぇ。それでも、健康には多少気を使っていたようで、一年に一回くらいは健康診断を受けていました。

自分の事はあまり語りたがりませんでした。結婚はしていましたけれどもお子さんはいなかったようです。奥様は医療関係者でした。しかし、このことがあだとなるとは、誰が予想したでしょう?

ある日、当然何の症状も無かったのですが、いつもどおり年一回の健康診断を受けに行ったのです。そこでの診断は、「ひどい胃潰瘍がある。このまま放っておくと癌になる可能性があるから、詳しい検査を受けた方がいい。」と言うものでした。そこで、受けた治療は内服薬による化学療法だったそうです。その時、医者からは「これは、アメリカで使われている治療薬である。潰瘍も治るし、癌にも効く。」と言うような事を言われていました。私なんぞは、その話を聞いた時、胃がんが治る内服の化学療法剤というのはあまり聞いた事は無いので、そういうものもあるのだなぁ。と、感心していたわけです。

その後、T氏は奥様の勧めでK大学病院に入院することになりました。何でも、奥様の知り合いで、大変手術のうまい医者がいたそうで、その医者に手術を頼もうと言うことだったのです。聞いた所によると、アメリカで仕込んできた手術だと言うことでした。(でも、胃がんの治療は日本が進んでいるはずなんだが…。)知り合いと言うこともあって、入院の話はトントン拍子に進んだのです。

そして、T氏は自分でも訳がわからないうちに入院しました。入院前に友人にかかってきた電話の内容は、「とにかく明日入院するから。」と言うことだったようです。入院の日に、予約してあったレストランをあわててキャンセルしたと言うほど、急に決まった入院でした。

入院も急なら、手術も急でした。普通、大学病院で癌の手術なら、数週間は検査に費やすのに、一週間足らずで手術になってしまったのです。それまでに、何回か友人に連絡があったそうですが、とにかく、本人には何がなんだかわからないうちに進んでいたようです。しかも、癌だなどということは一切知らされずに……。

手術の前にあった友人への最後の連絡は、「大した手術でもないようだから、すぐに退院できると思う。退院したら、食事でもしに行こう。」と言うような内容でした。本人は、よもや死ぬなどと言うことは考えていなかったようです。手術前に、医者がどれだけの診断をしていたのかは知りません。ですけれども、もし、これが進行癌だという事が分かっていて、それを、きちんと本人に伝えていれば…。

その後の経過は、はっきりしません。私の所には、知り合いからの間接的な情報が流れてくるだけで、その知り合いも、ご家族とはそれほど面識は無いので、はっきりとした情報は得られなかったようです。しかし、手術後、一週間ほどICU(集中治療室)で管理していたと言う情報は流れてきました。通常、いっくら大きな手術でも、経過が良ければ2〜3日で普通病棟に帰ってきます。つまり、かなり重症であったと言う証拠です。手術は成功であったということを執刀医師が言ったという情報も入ってきましたので、私はてっきり麻酔事故かと思っていました。それならば、一生植物人間という可能性もあります。

ところが、十日ほどした頃、会社の同僚から、ICUを出て一般病棟に戻ったと言う報告が私の知り合いの所へありました。私も、それを聞いてほっとしたのです。一般病棟へ帰ってきたのなら、危機は脱したのだろう。もう、回復するのをまつだけだ、と。しかし、事態は悪い方へ向かってしまいました。

翌朝、朝早くに急に状態が悪化して亡くなったという連絡が入ったのです。これで、すべての希望は打ち砕かれました。あの、ダンディなT氏が亡くなったなんてとても信じられません。しかも、私の所に届いた情報では、癌細胞ははっきり見つかっていなかったということでした。私は、知り合いのK大学病院の先生に頼んで、詳しい情報を聞こうと思いましたが、さすがに情報の隠蔽は完璧でした。何の情報も得られませんでした。

その後、ご家族が、執刀医から検診を行った医師に宛てた手紙を読んで真実が明らかになったのです。その報告によると、T氏はやはり進行性の胃がんでした。しかも、逸見政孝さんの事件で有名になった、胃スキルス癌だったようです。それなら、最初の医者が、癌かどうかはっきりしないと言ったのも納得出来ます。しかし、問題は、その後の経過です。きちんとした検査をすれば、スキルス癌でも分かるはずなのに、一週間と言う短い期間で手術を決定してしまったのは何故なのでしょう?しかも、手術をしたとき、癌の転移は膵臓にまで達していたそうです。結局、執刀医は自分の腕を過信して転移部まで手術の範囲を広げて、血管を傷つけた為に、T氏を死に追いやったのです。しかし、スキルス癌が膵臓に転移していたと言うことは、普通、手術の適応とはならないはずです。転移部まで手術を広げたと言うより、手術を強行したと言うこと事態、妙なことだと思われます。その点は、逸見さんの事件でも論点とされた所です。つまり、スキルス癌では、よほどのことが無い限り手術をするべきではないと言うのが一般的なのに、相手が有名人と言うことで勇んでしまって事態をひどくしてしまったのではないかと言うことです。T氏の場合も同じことが言えるでしょう。おそらく、執刀医は知り合いからわざわざ頼まれたからと言うので、かなり勇み足になっていたのではないでしょうか?知り合いから頼まれたのでなければ、おそらく、検査の時点で進行性のスキルス癌と診断して、手術に至る事は無かったのではないかと思うのです。

いや、もしかして、手術しなくても、後半年くらいで亡くなっていたかもしれません。しかし、本人が良く分からない間に手術されて病院で死んでしまうのと、本人が、自分は癌であることを知って、あと半年を自分が納得できる生き方で過ごして死んでしまうのと、ずいぶん死ぬことの意味が違うと思うのですが、いかがでしょうか?

確かに、自分で、死を知ることは怖いことかもしれません。しかし、自分の死を知ることができれば、その間自分の一番充実した人生を選択することができるのではないでしょうか?癌だともなんとも知らされないうちに、病院のベッドの上で、やりたいこともできず言いたいことも言えずに死んでしまうのとは、雲泥の差があります。少なくとも、私なら、癌であと幾ばくの命なら、是非知らせて欲しいと思うのです。その間に、やっておかなければならないことがたくさんあると思うのです。その無念さを思う時、私はT氏の死は、悔やんでも悔やみきれない死だと思うのです。そして、本人にまともな説明もせず、進行癌に無闇に立ち向かってしまった執刀医の心の未熟さと思慮の無さに、多くの日本の医師の根源的な欠点を見出してしまうのです。

これを読んでいる、ウソドクファンの皆さん!医者なんて信用なら無いものなんです。と、言うか、人間の能力には限界が有って、人間に人間の生き死にを決める能力なんて、本当は有りはしないのです。医療を受けても、死ぬ人は死ぬし、死なない人は死なない。ただそれだけのことです。だから、せめて、自分で自分の人生を選択すると言う責任を持ってください。それは、自分に対する義務であるし同時に権利なのです。簡単に、医者に自分の病気を任せてはいけません。納得できるまで、説明を求めて、そして、最後には自分で決定してください。そうしなければ、必ず後悔することになります。どんな選択肢を選んだとしても、その選択肢が正しかったかどうかは、結果が出て見なければ分からないのです。

私は、落ちこぼれ医者では有りますけれど、やはり、それなりにいろいろな症例を見てきました。死に瀕した患者さんの中には、治ると信じ込まされて、最後の最後まで苦しい治療を続けて亡くなった方も沢山いました。また、自分はいつ死んでもいいと思っているのだけれど、家族がどうしても治療しろと言うから、治療を受けると言って、何週間も苦しい治療を受けて亡くなった方もいました。

人間は、生まれるとき、自分の意志などかけらも無くて生まれてくるのだから、せめて死ぬときくらいは自分の意志を持って、自分の尊厳をもって死にたいではないですか。何故、それが許されないのでしょうか?私には、医療への過剰な信頼が、人の死の尊厳を失わせているように思えてならないのです。

私が、医者になって三年目のとき、ときどき入院する方で、癌の方を受け持ちました。その方は、癌の治療をしにいらっしゃるのではなくて、癌の為におなかに溜まった水(腹水)を取るために入院するのです。その方に、初めてあった時、こう言われました。「私は、私の病気のことは十分わかっています。でも、治療は一切しなくて結構です。先生方には悪いと思いますけど、私は、自分の意志でそうしているのですから、気になさらないでくださいね。」その方は、私が、初めて受け持ってから、何回か入退院を繰り返され、半年くらいしたとき自宅で亡くなりました。なんだか、その方が亡くなったと言う知らせを受けたとき、えらく感慨深く聞いた覚えがあります。その死は、自分の病気を知らずに、暗い病室で亡くなっていく患者さんの死とくらべると、私にとっては、受け入れられる死だと思われました。家族の方にも、自分の家で死を看取れたという喜びさえ感じられました。(もちろん、死を喜んでいるわけではない。)なんだか、医療の介入の仕方によって、死と言うのは、こんなにも意味が違うものかと考えさせられたものです。

T氏の話に戻ります。私は、結局、T氏は手術を受けなければ良かったのではないかと思っています。その原因となったのは、本人に癌の可能性も話さず、本人に何の選択もさせなかった、患者不在の日本的医療にあると思います。ですから、今の日本の未成熟な社会においては、(癌の告知が、まだコンセンサスを十分に得ていない世の中では)近藤誠先生のおっしゃる通り、癌検診なんて、十分な意味を持たないものだと思うのです。

うっかり癌検診など受けてしまったT氏。選択の余地も無く、医者の腕自慢の為に、残り少ない人生を消費されてしまったT氏。なんと悲しいことでしょう。その無念は、私の心の中にいつまでも残ることでしょう。それにしても、なんと言うこと!!!

あ〜あ、なんとなくすっきりしない気分のままホームへ戻る