人間の修理
車の治療 

 まぁ、人間を修理だなんて人権侵害だわ!なんて思っている方もあるかもしれません。でも、病気の治療と言うのは極論をすれば、体の修理と同じ事。デカルト的二元論の立場でいえば、人間の体だって、機械と同じようなものなんですから。精神や主観と言う事だって、脳の中における電気の流れであると考えれば、実は、機械の延長に過ぎないとも言える訳です。例えば、安部公房の第四間氷期に出てくるような万能コンピューター。ある男の記憶や刺激に対する反応、成長の仕方などがすべて記憶されていて、そのコンピューターがその男としての自意識を持っている。そんなことが現実に起こりうるかもしれないのです。古くはトワイライトゾーン、最近ではXファイルみたいな話しだな。いやいや、そんなことではありませんでした。治療と言う事を、もっと簡単に考えて、修理であるとしたら、医療の本当の姿が見えてくるのではないかと考えたわけです。

 

お医者様だなんておこがましくって…

 大体、お医者様だなんて、様をつけてしまうのはおこがましいこった。言われる方も、先生だのお医者様だの言われて有頂天になっている。かたわら痛いわ、カッカッカ。いつから、患者さんは治療していただくようになって、医者は治療してやるようになったのか?どうせ、昔、医者は貴族などに従属していて、それが、時々平民を助けてやったから、その名残だったりするんだろうな。そういえば、うちのひいひいじいさんは大名のお抱えの医者だったらしい。大体、医者なんてぇのは、そんなとこから始まったんだろう。時が時なら、ひかえおろう!といったところだが、そんなの喜んでいるようなら、こんな事夜中に眠い目こすりながら皆さんに訴えていませんやね。

デカルト的二元論の立場で

 それにしても、医者の仕事ってぇのはなんなんでしょううね。もし、デカルトの主張するように、肉体と言うのは精神とは分たれた機械であるに過ぎないと考えると、どうであろうか?人間の体というのは、人間が設計したわけではないので、設計図が全て揃っているわけではないということと、個人差があるので、部品の供給が難しいと言う事が問題になりますかね。しかしながら、車でも、フェラーリなんかに至るとほとんど手作業に近いから、別に作ったドアを持ってきても、うまく手を入れないとはまらないらしい。とても、人間的な車だと思います。そうでなくても、発展途上国では、とにかく、有る部品を改造して、別の車にあう部品を作ってしまうらしい。これを医療とオーバーラップして考えてみると、まさに、移植手術。治療だ治療だなんて大騒ぎしているから、大げさに聞こえるけれど、本当は、インドネシアあたりの自動車修理工場でいつもやっていることを人間の体でやっているに過ぎないのです。

人の修理・車の治療

「こんにちは」

「はい、こんにちは。今日はどうされましたか?」

「いやぁ、実は(風邪をひい・バッテリーが上がっちゃっ)たみたいで、来たんですけど。」

「なるほど、どんな具合でしょう?」

「ええと、(喉が痛・セルの回りが悪)くて、それに、(鼻水と咳が出・バッテリーランプが点い)てるし(熱っぽ・ヘッドランプが暗)いんですよ。」

「ほほぅ。では、(くち・ボンネット)を開けてみてください。ちょっと診てみます。」

「ああ、こんなに(喉が腫れて・バッテリー液が減って)ますねぇ。そうしたら、今日はとりあえず(お薬を出し・バッテリー液を入れて充電し)ておきます。少し(安静に・動か)しておいてください。もし、ひどくなるようなら、(バッテリー交換・点滴)をしますので、また、いらしてください。(お大事に・お気をつけて)どうぞ。」

「ああ、どうもありがとう。また、調子が悪かったら来ますので、よろしくお願いします。」

(左が人間、右が車の場合です。途中、間違いがあるかも知れません。適当に直して読んでください。まさか、喉のバッテリー交換などはしないはずですので…。)

修理、治療?

 機械と人間と、どこが違うのでしょう?大きな違いは、機械は人間が作ったものだから、ネタは割れているということです。それに対して、人間は神やら自然やらが作ったもので非常に複雑でまだまだ解明されていないものです。精神も実は電気の流れに過ぎないものです。ただ、その流れや神経のつながり方がどんどん成長したり退化したりするので複雑なのです。アメリカの著名なコンピューター学者は、人間の脳はコンピューターで代用しうると言っています。つまり、ある人の脳をコンピューターに全て記憶すると、そのコンピューターがその人自身と言う認識を持つと言うのです。その人の記憶をコンピューターに入力しておいて、その人の死後コンピューターを起動すれば、そのコンピューターが永遠にその人自身になると言うわけです。ん?じゃぁ、その人が生きているうちにコンピューターを起動してしまったら、どうなるわけ?ん??????その人はその人だと認識しているけれど、コンピューターもその人だと認識してしまうのではないですか?だれがその人なんでしょう?ふうむ。でも、おそらく神経細胞の発育形式には、大きく偶然性が作用しているでしょうから、しばらくすれば、それぞれの個性が出現してきて、個体を識別する事が可能となるでしょうね。つまり、コンピューターを起動した時点では、その人と同じ認識になるけれど、次第に、偶然性によって、認識に相違が出てくるだろうから、一卵性双生児のような関係になるのでしょう。でも、機械と人間が双生児様の関係を持つと言うのは気味悪い事だな。ま、いっかぁ。あ、そういう話しではなかった。その手の話は、きっと、安部公房なんか読むと、もっと深みにはまってしまうかもしれません。もちろんデカルトの方法序説に挑戦してみるのも良いかも知れませんが、あまりはまると、自分は自分ではないのではないかと言う疑念さえ湧いてくるので、ほどほどにしたほうが良いと思います。「ソフィーの世界」の文庫版も出たようですし、その辺で止めておいたほうが、おあとがよろしいようで。テケテンテンテン。

 閑話休題。どうも、こういう話になると、話はそれがちになります。人間と機械は当然、治療と修理と言う言葉の違い程、違いが有ります。しかし、ある所までは類似点が多いのです。なぜなら、特に、西洋医学では体の機能と言う事を重視して治療を考えるからです。

だから、どうしたってぇんだ?

 そうそう、例えば、かかりつけ医の問題についてです。例えば、皆さん、車が壊れたときどうしますか?近所のガソリンスタンドでとりあえず修理をしてもらう事もあるでしょう。いつも頼んでいる修理工場に持ち込むかもしれません。もちろん、ディーラーの工場に頼む事もあります。また、知り合いに紹介してもらうかもしれません。これを医者に当てはめると、近所のガソリンスタンドは、近所のクリニックにあたりそうです。いつも頼んでいる工場は、かかりつけ医。ディーラーの工場は、公立病院や大学病院でしょう。知り会いの紹介は、個人病院も有るでしょうし、大学病院もあるでしょう。

 さて、これらの修理工場にそれぞれの短所や、長所があるように、病院にだって同じような特徴があるわけです。例えば、近所のガソリンスタンドに行ってみてください。スタンドによっては、とても良心的に修理にあたってくれるし、手におえなければ近くの修理工場を紹介してくれることも有ります。逆に、悪いガソリンスタンドに頼んでしまうと、お願いしてもない修理をいっしょにしてしまったり、ひどいときには、うまく直せなかったりします。良くあるでしょう。ついこの間車検から帰ってきて、全部点検したはずなのに、頼んでもないボンネット点検をして、「いやぁ、オイル汚れてますネェ。こりゃぁ取り替えないとだめだぁ。」なんていっちゃうガソリンスタンド。これが、私の言う悪徳開業医にあたります。こういう場合は、とにかく、今、必要な事だけを解決して去ったほうが無難です。

 ちょっと大きい修理工場でも、怪しい事があります。私も、昔、嫌な思いをしました。そのときは、車をぶつけられて、保険で直してもらえる状況で近くの工場に持っていったのですが、板金ですみそう(素人考えで)な傷なのに、「ちょっと傷が大きいから、もしかするとドアごととっかえないとだめかもねぇ。」なんて言われてしまいました。怪しいなぁ、と、思いながらも近くの工場ですし、代車も貸してくれたので修理を頼んでしまったのです。で、しばらくして、車を取りに行くと、「やっぱ、ドアは全部とっかえました。」なんていわれて、車を返してもらったわけです。修理代は保険から出ているので、問題無いのですが、それにしても、ドアの所に取り付けていた、塗装の傷予防のプラスチックが、取り付けに失敗したまま、斜めについていたのは何故でしょう?明らかに、内側の傷も同じ所にありましたし、板金で済ましたのを、余計に金を取るために、交換したことにしたのは見え見えでした。ありゃりゃ、どっかの病院でやってるのと同じような事だなぁ。やってない検査や使ってない薬を、患者さんがわからないことをいい事に使った事にして、請求してしまうと言う手口、そっくりです。しかも、保険を使うので、当人の支払いはたいした違いはないですしね。まぁ、どこの世界にも悪党はいるものだ。

 じゃぁ、ディーラーだと信頼できるかと言うと、そうでもないようです。私の知り合いに、エアコンが壊れたのでディーラーに持っていって修理したら、車を返してもらって帰る途中に、また、エアコンが止まってディーラーに取りに来てもらったと言う人がいました。もちろん、しっかり修理代を取られたと言って怒ってましたけど。日本車は故障が少ないなんて言っていたって、けっこうその手の話は聞きますよね。ディーラーなどの大きな組織になると、なかなか小回りが効かないので、個々の事例に対応できないことが少なくないようです。これは、病院の世界にもいえます。医者が、「今日は、検査もうまくできなかったし、検査料は取らないで置こう。」と思っても、事務的に請求されてしまう事も多いのです。その辺は、個人病院のほうが小回りが効きます。

 車なら、修理に失敗しても、他の工場に持っていて直してもらったり、ひどければ、同じ車を買って返せ!って事だってできますけど、人間の場合はそうはいきませんやね。もちろん、軽い病気なら、しばらく通ってみて、どうもおかしいと思ったら、病院を替えるなり、他の医者に意見を聞いてみる手も有りますが、緊急の場合にはそうは行きません。手術しちゃってから、それって手術しなくてもいいんじゃないの?とか、死んじゃってから、それって、手術失敗だったんじゃないの?何てことも有ります。でも、逆に、治療すればすぐ治るはずだったのに、治療できない医者で、いたずらに時間だけ稼がれて、治らなくなってしまうなんてこともあります。

 例えば、別のところに書いたように、本当は手術なんかしない方が長生きしたんじゃないの?と言う人もいれば、開業医で、癌に気付かないまま二年近くも間違った治療をされて、大きな病院に行ってみたら、もう少し早く手術すれば良かったのになんてこともありますから。

体の修理だと思えば…。

 どうでしょう?体の事だと、治療だと思うから、「お医者様に診ていただいて…。」とか「治していただいているのに、別の病院にいくなんて…。」なんて考えてしまうのではないでしょうか?確かに、自分の体のことで一大事なのですけれど、それだけに、近視眼的な見方でのめりこんでしまうと、正しい判断ができなくなってしまうと言うものです。自分の事、家族の事だけれども、一度客観的に、例えば、治療ではなくて修理だと思って眺めてみると、意外に解決法が見つかるのではないでしょうか。車を修理するのなら、ガソリンスタンドに持ち込んで、なんか直んないみたいと思えば、すぐに修理工場へもって行くでしょう。ガソリンスタンドに悪いから、直らなくてもそのままにしておくなんて事はないじゃないですか。昨今の、お粗末な医療事故を見ていると、もちろん患者さんには不可抗力な事も少なくないのですが、中には、そんなに医者を過大評価していなければ助かったかもしれないのに。と、思うような症例も少なくありません。

そのことについて、確か、アメリカの医者が書いた本で見た記事で印象深いものがありました。自分の子供がある日、熱をだしたそうです。日曜日で病院もやっていないし、自分は医者だけども小児科ではない。一応、専門医の診断をうけて薬をもらおうと思って、近くの救急病院に行きました。たいした事はないといわれて、一日分の薬を渡されてとりあえず帰宅したそうです。ところが、薬をのんでも具合が悪くなるばかり。どんどん悪くなるので、おかしいと思って、もう一回、他の救急病院にかかりました。すると、すぐに入院が必要な病気で、とりあえず緊急入院して、何とか治癒したという事です。もし、気付かなければ手遅れになっていたかもしれなかったと小児科医に説明を受けて、確かに検査結果を見るとその通りであった。という話です。その医者は、自分が医者であっても、このような事が起きるのだから、医者でなければどうなったであろう。と、書いていました。もちろん、このときには、医者としてではなくて、父親として行動したのでしょう。もし、医者ということでプラスになった事といえば、一人の医者の診断が必ずしも正しくはないということを知っていたという点でしょう。

この例に見るまでもなく、一人の医者の診断を、「お医者様の言う事だから」なんて言って、信じ込んでしまう事は、ある意味では自己判断の放棄ともいえます。そこで、この項の題を思い出してみてください。体の治療だと思うから、妙に神聖化して、医者の言う事を盲目的に信じさせられる事になってしまうのです。体の修理をしているのだと思えば、他の医者に意見を聞いたり、疑わしければ、他の医者の診断を受ける事も簡単にできるのです。

とはいえ…。

 とはいえ、なかなか自分の体を託すのに、修理だと思うのは難しい事でしょう。愛しい自分自身や、自分の家族がかかっているわけですから。誰かを、神聖化して、それに頼りたいという気持ちになるでしょう。しかし、そこに、医療の盲点があると思うのです。ですから、いつもとは言いません、時には、客観的に病院通いを見直して、もし、体の修理だとしたら、どうすればいいか。と考えてみると良いと思うのです。ときに、患者さん自身の客観的な目が、医者のミスや失敗を気付かせる事にもなるのです。取り返しのつかないことになる前に、もう一度、客観的に医者の言う事やっている事を評価してみてはいかがでしょうか?

 もし、指摘した事柄に、理論的な説明や、もしくはミスに対しての謝罪がなければ、ちょっと、ヤバイ医者かもしれません。

 …。ああ、また、余計な事を書いてしまった。自分の墓穴を掘ったかもしれない。ふんどしの紐、いいや、パンツのゴムを引き締めていかなければ…。

 

そっかぁ、やっぱ、医者なんか信用ならないんだぁ。と、不安を抱きつつホーム